(124)九段下・耳袋 其のにじゅういち

[2021/5/29]

府中認知検査遊覧飛行

先週の大きな出来事は運転免許証更新のために、府中の運転免許試験場におもむき、認知機能検査を受けたことである。この検査は「免許証の更新期間満了日(私の場合は誕生日の1ヶ月後の10月17日)」の年齢が75歳以上になる者で、かつ現行の免許証の更新を希望する者が対象になる。まず「認知機能検査」を受験し、その成績から①「記憶力・判断力に心配ありません」という判定を受けた方、②「記憶力・判断力が少し低くなっています」という判定を受けた方、③「記憶力・判断力が低くなっています」という判定を受けた方、の3つのグループに振り分けられる。
検査終了後、私は幸い判定①の結果通知書をもらい、次のステップ、8月の「高齢者2時間講習」を受講し、これが終われば晴れて免許証更新の手続きとなる。認知機能検査は指定時間に高齢者男女20人がひとつの教場に集められ、30分の試験を受ける。受験料750円は教場の中で集められた。
府中の運転免許試験場は久しぶりだ。最近は「優良運転者」だったので免許更新の手続きは指定の警察署で済ましていた。武蔵小金井駅から乗ったバスが、試験場正門の停留所に着く。沿道に立ち並んだ代書屋が、バスから降りてくる客を奪い合う光景はいつから消えたのだろう。風景は一変し代書屋はいなくなり、そのあたりはマンションや病院になっている。
前から人に言ってきたことがある。ここ運転免許試験場という場所は、皇族も(多分)、政治家も(多分)、官僚も(多分)、金持ちも貧乏人も分け隔てなく、もちろん男女そして年齢もすべて関係なく、ただただ免許証交付・更新のために一列に並んで素直に指図を受ける。こんなところは日本社会の他にどこにあるだろう、ないよ、と。
しかし、今回は受験するのが全員75歳以上という、この括りが、やはりいつもの雰囲気と少しちがっていた。そして受験中にはトイレ時間があったり、持ち込んだ飲み物は自由に飲めたりと、時代は変化している。試験官は3人、進行役が連発する寒いジョークにほとんど反応しない受験生。われわれも無駄に馬齢を重ねてきてはいない。

村山新治へのつぶやきは続く

先日亡くなった映画監督・村山新治。追悼のブログをいくつか紹介しよう。
【東映バカの部屋】
すごいタイトルのブログだが、その筋ではよく知られたサイトだという。「東映バカ」さんは、『風の又三郎』(57)の紹介から始める。

「東映で対象年齢層・作品種別を問わず幅広く活躍された村山新治監督が2月14日に98歳でご逝去されました」「純真無垢な低年齢層に作品の世界観をすんなりと受け入れて貰う為に余計な事を一切せず直球を投げた姿勢は、当時はまだ駆け出しであった監督の腕とは思えぬ良さが在りますし、この感覚がドキュメンタリー要素を持っていた事件物・ヤクザ物・色物等々、更には監督稼業末期の特撮物の演出にも生きたのではないかと思う程」「観客目線や期待に応えなければならない為、最も難しく真の実力が要求される徹底娯楽がきちんと出来る監督は善良性の作品を手掛けても確かな腕を発揮している。村山監督もその一人」うれしい追悼文だ。

【0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評】
鳴海さんは成澤昌茂の脚本と梅宮辰夫と組んだ『いろ』『夜の悪女』『夜の牝犬』『柳ヶ瀬ブルース』などを秀作であると評価し、「全体的に、テンポの良い展開の手堅い出来の作品が多かったと思う」「プログラムピクチャーの腕のいい職人監督という印象の強い名監督だった」とコメントしている。
他に「警視庁物語」のシリーズや『無法松の一生』(63)を取り上げている方(papatyan) もいる。
「村山監督は、犯罪映画から、社会派作品、純愛映画、文芸作品、アクション映画と幅広く、完成度の高い演出が続きますが、後年は作品に恵まれず、昭和40年以降はテレビ映画に活躍の場を移しています。テレビ映画『ザ・ガードマン』『キイハンター』『特捜最前線』などの村山監督作品は、一味違っていました」隠れ村山新治ファンはけっこういる。

【追悼 村山新治監督】不思議な縁(えにし) 坂本太郎
伊勢原に住む実兄・村山正実(文化・記録映画監督)から電話があり、数日後その郵便物が来た。それは、兄も叔父・村山新治も会員である日本映画監督協会の会報『映画監督』(No.772 2021.5)だ。

この小冊子に監督の坂本太郎さんが村山新治への追悼文を書いている。高名な歴史学者と同じ名前の映画監督を私は知らなかった。手元にある『日本映画テレビ人名鑑』(1991年刊)は少々古い版だが、この中にある「日本映画監督協会」の監督の章に「坂本太郎」のお名前がある。1935年生まれ、日大芸術学部卒、1964年東映テレビプロ入社とある。さて坂本さんの追悼文「不思議な縁」から少し紹介していこう。
「村山監督との初めての出会いは、伊吹吾郎、野川由美子主演の東映映画『尼寺博徒』(71)でした」坂本さんは東映テレビプロの助監督として応援に行く、当時36歳だろうか。村山は49歳で、42番目の監督作品だった。その後、劇場映画からテレビに仕事をシフトした村山のもとで、坂本がチーフ助監督に付いたのが『特捜最前線』(ANB、77〜87)だ。「噂では小今井・・・ さん(小さな今井正)と呼ばれた頑固者と聞かされた」そうだが、わがまま放題の役者のスケジュールのことで相談すると、「何時も上手く調節してくれました。物静かで動じない大人でした」これが事実上の最初の出会いといえる。次に市川染五郎(現・松本白鸚)と夏目雅子(1957〜85)主演の『騎馬奉行』(KTV、79〜80)でも助監督に付いた。監督の「時代劇のゆったりとした作風が私は好きでした」「何時も穏やかで、偶に冗談を言って自分で笑い、恥ずかしそうにごまかすところが可愛かったです」
坂本太郎さんは、1982年にフジテレビ系の「東映不思議コメディー」シリーズの『バッテンボロ丸』で監督デビュー、47歳だった。「その昇進祝いに村山監督が来てくれた。テレビプロ以外の監督の出席はただ一人で、祝辞まで戴いた」その不思議シリーズが始まってから、6年目の年に突然、村山新治もこのシリーズに参加する(村山65歳)。これが3度目の出会いとなる。それから「7年間、今度は同じラインでお互いに監督として仕事ができたのです」「私の大好きな浦沢義雄脚本で自分の孫のような子役の子を同じ目線で優しく導き、子供ほどの若い監督と同じように楽しみながら監督をしていた姿は感動的で、私もずっとこうありたいと思いました」「やはり映画を撮られて来た監督で絵作り、実景の入れ方、流れは大好きでした」
最後に坂本さんはこう結ぶ。「また何年か経ったら何処かで4度目の出会いをしましょう。顔を見て〈やあ!久し振りだね〉、それだけでもう嬉しいです」
坂本さん、心のこもった追悼文、ありがとうございました。村山新治の現場、それも今まであまり語られなかったテレビでの晩年の一端を知ることができたのは、甥として大変有り難かった。