(50)トランクの中の少年
[2019/12/13]

82歳のフランシスコ・ローマ教皇(法王)は11月23日から26日まで、3泊4日のしかも超過密スケジュールで長崎、広島、東京を精力的に回った。私が26日の昼休みに四ツ谷の上智大学をたずねた時、ローマ教皇はすでに羽田空港からローマに向かって帰国の途についていた。実はこの26日、史上初のイエズス会出身の教皇は朝から上智大学を訪れ、スピーチをしていた。

私が上智大学に行ったのは、大学内で開催中の〈ローマ教皇来日記念ジョー・オダネル写真展「戦争がもたらすもの」〉を見るためだった。場所は6号館の1階スペースのコーナーで10枚にも満たない写真が掲示されるだけの、係員もいない、チラシもない、資料となった写真集も置いていない、ささやかな写真展だった。

ジョー・オダネル(1922~2007)はアメリカ海兵隊のカメラマンとして1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。以後翌年3月までの7ヶ月間、空襲による被害状況を記録するように命令を受け、長崎市をはじめ日本各地、50以上の市町村をまわった。帰国後、オダネルは軍務以外に私用カメラで撮影したおよそ300枚のネガをトランクに納め、蓋を閉めた。

オダネルは1949年から連邦政府の情報局に籍を置き、ホワイトハウス付きのカメラマンとなる。トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンと4人の大統領に仕え、大統領が参加する行事の記録を写真撮影した。

1968年に大統領付きのカメラマンを引退したオダネルは、1990年になって屋根裏に仕舞い込んだままのトランクを45年ぶりに開けた。翌年には原爆写真展をテネシー州ナッシュビルで開くことが出来、日本でもその写真展が各地で開かれた。1993年、福島県会津若松市の教会でもオダネルの写真展が開かれた。その時、オダネルはこの写真展の実行委員会員で教会員でもある、ひとりの女性に出会う。

オダネルは自分の写真集の企画書を30以上の出版社に送ったが、どこからも色よい反応はなかった。1995年になって初めて、日本の出版社から刊行することになる。それが『トランクの中の日本――米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館)である。これをきっかけに「焼き場に立つ少年」の写真の存在が知られるようになる。この写真の撮影年は1945年、撮影場所は長崎と記されている。

『百万人の福音』という雑誌(いのちのことば社)がある。2018年8月号の特集は「ノ―モア〈焼き場に立つ少年〉」。オダネルは1993年に会津若松で出会った坂井貴美子さんと、97年に再婚する。そしてオダネルの死後、坂井さんは2017年に『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』(写真=ジョー・オダネル、編著=坂井貴美子、フォレストブックス)を出版することになった。

死んだ弟を背負い、直立不動、毅然たる姿の「焼き場に立つ少年」。2017年、ローマ教皇フランシスコは、この写真を印刷したカードに「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて、世界のカトリック教会に配布するよう指示を出した。

しかし、この少年は誰なのか、本当に長崎で撮られたのだろうか、写真は裏焼きではないか。だれでも感動する写真でありながら、事実が置き去りにされ、写真だけが独り歩きしていると指摘する人も多い。私が上智大学で見たオダネル写真展にもこの「焼き場に立つ少年」はもちろんあったし、展覧会のポスターにも使われていた。

オダネルが長崎に入ったのは1945年9月2日。実はオダネルの前に、8月9日の原爆投下の翌日の10日朝、長崎市に入って記録写真を撮影した写真家がいる。山端庸介(やまはた・ようすけ 1917~66)だ。山端は陸軍省西部情報部の指令で被爆直後の長崎市に入り、悲惨な状況をおよそ100枚の写真に残した。「原爆の図」を描いた丸木位里、俊はこの山端の写真をもとにして人物描写をしたといわれている。このことは、『《原爆の図》全国巡回』(岡村幸宣著、新宿書房、2015)や近刊の『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』(岡村幸宣著、新宿書房)でも知ることができる。

戦後になっても山端の写真はGHQが〈原爆〉を報道規制(プレスコード)したため、占領下の日本では公開できず、その実現は1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効、つまり日本の独立を待たなければならなかった。

山端が亡くなったのは1966年、オダネルがトランクを開けたのが1989年。当然、山端はオダネルの写真を見ることが出来なかった。しかし、占領軍のプレスコードが解かれ、アメリカの雑誌『LIFE』1952年9月29日号の「原爆特集号」に載った山端の写真を、ホワイトハウス付きのカメラマンだったオダネルはひょっとしたら見ていたかもしれない。