(121)川越の無法松

[2021/5/8]

『映画芸術』(2021 Spring 475号)の「追悼 村山新治」を読んだ方から、いくつかのメールをいただいた。そのうちのひとつを紹介しよう。
東松山にある「原爆の図丸木美術館」の学芸員・岡村幸宣さんから。岡村さんの自宅は川越市。自宅の1階では奥様がCafé & SpaceのNANAWATAを開いている。いまや、岡村夫妻はすっかり小江戸・時の鐘の町、川越にとけ込んでいるようだ。
村山新治監督の作品の中に、『無法松の一生』(63)がある。村山は当時41歳、監督作品22作目の作品だ。原作は岩下俊作(1906〜80)の『富島松五郎伝』(初出『九州文学』1939年10月号)。主人公は人力車夫の富島松五郎、通称無法松。村山の作品はリメークのリメーク。最初の映画作品は1943年で、監督=稲垣浩(1905〜80)、脚本=伊丹万作(1900〜46)、主演=阪東妻三郎、撮影=宮川一夫。次が、戦後の1958年の作品。監督は同じ稲垣浩、脚本は同じ伊丹万作だが、戦前の前作では軍部の命令によって改訂させられた部分を稲垣浩が復元している。撮影は山田一夫、主演は三船敏郎。本作は1958年の第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(最高賞)を受賞した。
3度目の映画化となった村山新治版の『無法松の一生』。先行の2作品はいずれも名作と評価されており、村山にはかなりのプレッシャーがあったはずだ。しかも今回の脚本は伊丹万作ではなく、伊藤大輔(1898〜1981)のオリジナル、主演は三國連太郎。伊藤大輔は戦前からの活躍してきた映画監督で、「時代劇の父」とよばれた大物だ。前年の62年には将棋棋士の坂田三吉を描いた『王将』(原作=北條秀司、脚本=伊藤大輔、主演=三國連太郎)の監督をつとめている。この作品は同年に東映・東撮(東京撮影所)の所長に就任した岡田茂が掲げた、名作路線の第1作と言われている。
これは名匠稲垣浩の2作の後の3度目のリメーク、さらに伊藤大輔のホンと、たいへんな重圧だ。まず、三船主演の作品を参考試写で見る。この程度なら大丈夫と思う、しかし、阪妻主演の戦前版も見ると、「これはものすごくいいんだね。これを暗がりで見ていて、俺はえらいものを引き受けちゃったなと」とつぶやく。
今井正の『ひめゆりの塔』(53)や佐伯清の『大地の侍』(56)の助監督をつとめた村山には、佐伯清監督の『花と龍』(54、第1部、第2部)にもついて、九州・若松港のロケに参加した経験があった。原作者の火野葦平は岩下俊作と同じ『九州文学』の同人仲間でもある。そんなこともあって、ある程度の目算があったかもしれない。
無法松の舞台は九州の小倉だが、村山作品のロケは両毛線の駅舎、栃木市、水海道町(現・常総市)、川越市などで行われ、運動会のシーンや最後のお祭りシーンは川越の町で撮影された。撮影は飯村雅彦。お祭りシーンでは、テレビのアンテナや商店街の街灯のスズラン灯まで外してもらったという。
岡村さんが添付してくれた川越の町雑誌『小江戸ものがたり』第10号(2006年4月)と第14号(2012年7月)を見ると、当時の小学生、中学生、高校生だった人が、映画のロケ撮影参加の思い出を語っている。主演の三國連太郎(1923〜2013)は、2006年2月、ここ川越で行われた「まちなか職人展」に特別ゲストとして参加したという。また、川越スカラ座では2011年10月1日に、1日だけの村山作品の『無法松の一生』が特別上映されたことがあるという。
村山監督作品で、三國連太郎が出演したのは、以下の5作品である。
 『七つの弾丸』(59、脚本=橋本忍、撮影=仲沢半次郎)
 『白い粉の恐怖』(60、脚本=船橋和郎、撮影=星島一郎)
 『故郷は緑なりき』(61、脚本=楠田芳子、撮影=林七郎)
 『東京アンタッチャブル』(62、脚本=長谷川公之、撮影=仲沢半次郎)
 『無法松の一生』(63、脚本=伊藤大輔、撮影=飯村雅彦)
2017年の8月〜10月にかけて、阿佐ヶ谷のラピュタで、“役者バカ、個性派・演技派、異端児、怪優―――”のキャッチコピーのもとに「一役入魂 映画俳優 三國連太郎」の30本の特集上映が行われた。上映にはさまざまな条件があったかもしれないが、このラインナップの中に『七つの弾丸』『白い粉の恐怖』『東京アンタッチャブル』『無法松の一生』の4本が入っていた。


阿佐ヶ谷ラピュタのパンプ。表紙は『無法松の一生』から。

ノンフィクション作家の佐野眞一の単行本の中に『怪優伝 三國連太郎・死ぬまで演じつづけること』(講談社、2011)がある。佐野は三國自選の10本の映画を、1日2本ないし3本、1日のインタビューは5時間と決め、三國の自宅で一緒に鑑賞し、そのインタビューを載せている。
三國の自選10本が次の作品だ。(掲載順)

『飢餓海峡』(65、東映、監督=内田吐夢、脚本=鈴木尚之、撮影=仲沢半次郎)*
『にっぽん泥棒物語』(65、東映、監督=山本薩夫、脚本=高岩肇・武田敦、撮影=仲沢半次郎)
『本日休診』(52、松竹、監督=渋谷実、脚色=斉藤良輔、撮影=長岡博之)*
『ビルマの竪琴』(56、日活、監督=市川崑、脚色=和田夏十、撮影=横山実)*
『異母兄妹』(57、北星映画、監督=家城巳代治、脚本=依田義賢・寺田信義、撮影=宮島義勇)*
『夜の鼓』(58、松竹、監督=今井正、脚本=橋本忍・新藤兼人、撮影=中尾駿一郎)*
『襤褸の旗』(74、『襤褸の旗』製作委員会、監督=吉村公三郎、脚本=宮本研、撮影=宮島義勇・関根重行)*
『復讐するは我にあり』(79、松竹=今村プロ、監督=今村昌平、脚本=馬場当、撮影=姫田真佐久)
『利休』(89、松竹、監督=勅使河原宏、脚本=赤瀬川原平・勅使河原宏、撮影=森田富士郎)
『息子』(91、松竹、監督=山田洋次、脚本=朝間義隆・山田洋次、撮影=高羽哲夫)*
*は阿佐ヶ谷ラピュタでの上映作品。

この自選リストの中には村山新治作品はないし、本の中で三國が村山を言及しているところは一箇所もない。また。今村昌平の『神々の深き欲望』(68)や大島渚の『飼育』(61)や『天草四郎時貞』(62)などの作品も選ばれていない。興味深いのは、佐野眞一が大島渚の演出はどうでしたと聞くくだりだ。三國はこう答える。
「よく『うまそうに芝居をしないでよ』っていわれましたね。」(p319)
ここで私はひとり静かに笑う。村山新治は三國連太郎と演技のことで、毎作のたびによく話し込んだという。村山のもとで助監督をつとめた澤井信一郎はこういう。「(村山と三國の間で)議論が始まると2時間は撮影中止になる。村山さんは逃げなかったですよね。『俺のいう通りやれよ』と言わず、ちゃんと対応していましたね。」村山も別なところで言う。「三國はエゴイストもいいところだよ。彼とはしょっちゅうケンカばかりしていた。いかに自分を引き立てようと、自分の意見を通そうとするんだ。」「人によっては〈あれは旅回わりの座長芝居〉なんて悪口を言う人もいたけどね」一方、三國は「ぜんぜん言うことを聞かない人だ、あんな頑固な監督はじめてだ」と撮影所中を触れ回ったそうだ。このあたりのところは、『村山新治、上野発五時三五分』(新宿書房、2018)にいろいろ出ている。ぜひ読んでいただきたい。当時の新聞には、「ネバリ屋といわれる村山監督とコリ屋の三國らしい討論には熱がこもる」と書かれる。わが叔父の静かで、しかし頑固なところがよく出ている。




『無法松の一生』ロケ風景。『村山新治、上野発五時三五分』p305、p308 から。
二人はモメているのか?(笑い) 協力=大木茂+桜井雄一郎

村山の『無法松の一生』の映画評はどうだったのだろうか。「みごとな三國の演技。演出も好調。グランプリ作品の第2作目をしのぐできばえである。」(産経)「見事、三國の松五郎、心打つ慕情。村山監督は淡々とした手法のうちに季節のうつり変りを見事にとらえ、しょせんどうしょうもない別の世界に住む者の姿を、しっかりと浮き彫りにしている。」(東京)
しかし、1963年の邦画には『にっぽん昆虫記』(今村昌平)、『天国と地獄』(黒澤明)、『武士道残酷物語』(今井正)と話題作が並び、その年の「キネマ旬報ベスト・テン」の39本の中にも村山の『無法松の一生』はノミネートもされなかった。また1963年(昭和38)というこの年は映画興行界にとって、実に象徴的な年だった。わずか5年前の1958年には映画館入場者数が11億人を超えピークを迎えたが、この年はなんとその半数にまで落ち込んだのだ。まさに大衆の娯楽が映画からテレビに移っていく時代に入った。

村山新治の娘さんから連絡があった。「4月29日に東京・墨田区のお寺にある「映画人の墓碑」に納骨しました。ここは、故人が生前から希望していたところです。」 僕の叔父さん、どうかゆっくりお休みください。