(7)村山新治と佐伯孚治
[2019/2/1]

村山新治の本を編集していて、ずっと気になっていた人がいた。

佐伯孚治(さえき・たかはる)。映画監督、特撮テレビドラマの演出家である。1964年に東映監督としてデビューしたにもかかわらず、劇場用映画作品はわずか2作品のみである。『村山新治、上野発五時三五分』が昨年(2018年)刊行される直前の1月13日に亡くなった。佐伯は村山より5歳下の1927年生まれであった。

先日、「佐伯孚治監督に聞く わが映画人生と組合体験」(聞き手=四茂野修)というインタビュー記事のことを、ある方から教えていただいた。

その記事は雑誌『われらのインター』(第29号、2010年2月10日、発行所=国際労働総研)に掲載されたものである。

このインタビュー記事をもとに、佐伯孚治を中心に、これに同時代の村山新治らの動きを重ねた「クロニクル」をまず作ってみた。


1945年8月15日 村山新治、朝日映画社の助監督で敗戦を迎える。

1947年 東大協同組合出版部から『はるかなる山河に:東大戦歿学生の手記』が刊行される。同年、東横映画に入社した岡田茂がこの手記の映画化を企画するが、東大全学連の氏家斎一郎(1926~2011 元・日本テレビ代表取締会長)らが映画化の内容に反対して、製作は難航。

1948年4月 佐伯孚治、東京大学入学。佐伯の所属した日本共産党東大細胞のキャップは戸塚秀夫だった。

1948年8月 第三次東宝争議で米占領軍が出動。

1949年1月 村山新治がいた新世界映画社が倒産。当時、記録映画『号笛なりやまず』(49、浅野辰雄監督)を撮影中だった。

同年10月 戦歿学生の手記集の続編、日本戦歿学生手記編集委員会編『きけわだつみのこえ 日本戦歿学生の手記』(東大協同組合出版部)が刊行。映画のタイトルは同書からとった。東横映画の脚本に再三クレームをつけた学生側は「監視役として学生2人を撮影現場につけること、版権料20万円とフィルム1本を全学連に提供すること」で東横映画の映画製作を了承した。

1950年1月 コミンフォルムによる、日本共産党批判。この評価をめぐり、日本共産党は所感派と国際派に分裂。

同年4月1日 村山新治、太泉映画に入社。助監督(セカンド)。

同年6月15日 東横映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(監督=関川秀雄、脚本=船橋和郎、音楽=伊福部昭)公開。東大細胞の国際派に所属する佐伯孚治は提供された映画のフィルムをかついで九州にまで反戦学生同盟づくりのオルグに出かけた。

同年6月25日 朝鮮戦争起こる。

1951年4月1日 東横映画、東京映画配給、太泉映画の3社が合併して、「東映」が発足。村山新治、東映入社、小林恒夫とともに助監督(チーフ)に。

1952年2月 国際派の東大細胞で「査問・リンチ事件」が起きる。スパイ容疑で査問・リンチされたのは、戸塚秀夫、不破哲三、高沢寅男の3人。

同年5月1日 血のメーデー事件。6月には吹田事件、7月には大須事件も。

同年、村山新治、東映労働組合中央委員になる。

1953年1月9日 『ひめゆりの塔』(監督=今井正、助監督(チーフ)=村山新治)公開。

同年4月 深作欣二(1930〜2003)、東映入社。

同年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定調印。

1954年4月 佐伯孚治、東映入社。同期には平山亨、高岩淡、小西通雄。

同年 村山新治、東映労働組合東撮支部委員長に。

1956年1月29日 『大地の侍』(監督=佐伯清、助監督(チーフ)=村山新治、助監督(フォース?)=佐伯孚治)公開。

同年、村山新治、東撮支部委員長を辞め、契約社員になる。

1957年8月28日 村山新治、『警視庁物語 上野発五時三五分』で劇場映画監督デビュー。

1957年10月15日『純愛物語』(監督=今井正、助監督(サード)=佐伯孚治)公開。

1958年 映画館入場者数が11億人を超えピークに。

1959年12月6日 『べらんめえ芸者』(監督=小石栄一、助監督(セカンド)=佐伯孚治)佐伯は同作品の続編、『続べらんめえ芸者』(60)『続々べらんめえ芸者』(60)『べらんめえ芸者罷り通る』(61)でも助監督(サード)に。

1961年1月22日『はだかっ子』(監督=田坂具隆、助監督(チーフ)=佐伯孚治)公開。

同年4月1日 澤井信一郎(1938〜)、東映入社。

同年6月9日 深作欣二、『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で劇場映画監督デビュー。

1963年11月1日『五番町夕霧楼』(監督=田坂具隆、助監督(チーフ)=佐伯孚治)公開。

同年、宮崎駿が東映動画に入社。

1964年4月18日 佐伯孚治、『どろ犬』で劇場映画監督デビュー。

同年、宮崎駿は東映動画労組の書記長(71年に退社)。

1965年 佐伯孚治、傍系のテレビドラマ専門製作部門の東映東京制作所に異動(これ以降は佐伯孚治インタビューに掲載されている「東映労組東京撮影所支部の歴史」を参照)

1981年8月8日 澤井信一郎、『野菊の墓』で劇場映画監督デビュー。

1982年 佐伯孚治、定年で東映を退職。


*訂正:・影同心(監)→影同心Ⅱ・ロボットはっちゃん→ロボット8ちゃん

「佐伯孚治監督主要作品」によれば、佐伯の劇場映画監督作品は前述した『どろ犬』(64、原作=結城昌治、助監督(チーフ)=降旗康雄、助監督(サード)小林義明、撮影=飯村雅彦、出演者=大木実、他))と『高原に列車が走った』(84、撮影=林七郎、出演者=美保純、他)のわずか2本である。

村山新治と佐伯孚治は1954年から57年まで助監督として東映東京撮影所(大泉)にいたことがわかる。佐伯清監督の『太地の侍』(56)では、二人は助監督として一緒に仕事もしている。

佐伯孚治は『どろ犬』の後、どうして映画が撮れなくなったのか。インタビュー記事から引用してみよう。

「監督になって初めて『どろ犬』という映画を撮ったばかりのとき、世田谷にある大川社長宅にデモをかけたのに僕も参加したんです。東京撮影所の支部委員長の首切りに反対する行動でしたから、僕のいた演出部会も大部分が行きました。ところが運悪くスポーツ紙の記者が撮った写真に僕が写っていたらしい。それを誰かが社長に持っていった。当時は監督に登用されると社長室にあいさつに行くことになっていたので、僕の顔を見つけた社長が、〈監督のくせに家にデモで押し掛けるとは何事だ。今後絶対に映画を撮らせるな〉と激怒したとか。それ以来、僕は自分の会社で監督ができなくなりました。いわゆる干されたんです。」(インタビュー、p23)

実際、佐伯孚治が2本目の映画『高原に列車が走った』を監督したのは、大川博が死んだ1971年、それからさらに13年後、『どろ犬』監督から実に20年の歳月がたった84年のことである。佐伯はその間、82年に東映を定年退職していた。

1960年当時、東映東京撮影所(東撮=大泉)の撮影現場には臨時者という人たちが全体の8割もいた。かれら全員の組合加入が実現したのが1961年。これで東映労組は1300人から2400人に膨れあがる。ここから会社側の組合つぶしが始まる。そして1965年には東撮を二分してテレビ映画とCMをつくる東京制作所ができる。ここに東映労組の活動家全員が配転される。佐伯はまずそこに入れられ、さらに目黒にできたPR分室に追いやられた。出勤すれど仕事は一切ないという状態に置かれる。

「その後、組合は契約者と呼ばれた契約ベースで働く人たちの組織化を進めます。そうするとまた攻撃が始まりました。子会社がつくられ、仕事の持ち出し(外注)が拡大するのにあわせて、組合員の仕事がどんどん減らされて行きました。ついに1976年には仕事はすべて持ち出しになり、撮影所には建物と組合員だけ残されました。目の前で外注先の会社の人たちが仕事をするのを、組合員は指をくわえて見ていることしかできなくなります。」(インタビュー、24頁)

「いろいろジグザグはありましたが、手を焼いた会社は組合員が出向して企画営業部つくり、そこが仕事を見つけてきて、自分たちでやってみろということになりました。組合側も仕事が見つかるまでは、他の事業所への「スタッフ派遣」や他社への「人材貸出し」も進んで受けることにしました。そしてついに東京12チャンネルから『ザ・スーパーガール』シリーズ(1979~80)を受注して、自主制作が始まりました。組合員は大変な苦労をしましたが、出来上がった作品は好評で、僕もそこで次々仕事が出来るようになりました。そのあと、自主制作はフジテレビの日曜の朝の子供番組(「東映不思議コメディ―」シリーズ)に引き継がれましたが、それまで数パーセントしかなかった時間帯で、10パーセント台半ばを超える視聴率をかせぐようになり、12年も続きました。大企業の中で、組合が長年にわたって自主制作をやるというのは、おそらく前代未聞のことじゃないでしょうか。この実績の上に、1985年についに組合員全員の東京撮影所復帰を実現しました。20年ぶりのことです。」(同前、25頁)

村山新治は1960年代後半に入ると、監督作品が減ってくる。1968年4本、1969年0本、1970年1本、1971年2本、1972年2本、1973年0本、そして1974年は1本、これは最後の劇場映画『実録飛車角 狼どもの仁義』である(本書「村山新治フィルモグラフィー」参照)。当時まだ52歳だった。そして、大泉の東映東京撮影所の中にある東京制作所で、テレビ映画監督になっていく。

「このとき(『キイハンター』)に僕は初めて制作所で仕事をしたんだけども。行ってみたら、そこにいる連中は〈俺たちは組合運動をやったからこっちに追いやられた〉みたいなことを言ってね。(笑)やたらに文句にが多くて、不平不満が多かった。かつ人も大勢いた。」(本書337~338頁)

1972年には最盛期11億人を超えた映画館入場者数が2億人を割っていた。映画は斜陽時代に入っていた。撮影所の仕事は劇場映画からテレビ映画の製作に大きく舵を切っていた。

1964年の映画デビュー以来長い間干されてきた佐伯孚治が。組合の仲間たちとともに立ち上げた東映内自主制作の映画づくりの輪の中に、村山新治が入っていく。その二人は、テレビ映画の『刑事くん』『新宿警察』『宇宙鉄人キョーダイン』『ザ・スーパーガール』『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』などに監督として関わった。

特に1981年から始まり93年までの12年間フジテレビ系で放送された「東映不思議コメディ―」シリーズ(第1作~第14作)、このシリーズの製作や企画には佐伯の東映入社同期の平山亨(1929~2013)や後輩の小林義明(1936~)らが加わった。佐伯は同シリーズの全作品に関ったが、村山も87年から93年の放送終了まで関わったのである。

ふたりの最後の仕事となったこのシリーズ。かつては『大地の侍』で助監督で働いた二人が、およそ30年後にふたたび一緒に働き、かつての撮影所仲間にまるで抱かれるように、それぞれの現役を終えたことになる。村山、71歳、佐伯、66歳であった。