(75)2019年台風15号始末記
[2020/6/13]

5月のある日、知り合いの加藤淳さんから、原稿が送られてきた。これをどこかの雑誌や新聞(それに会社PR誌や団体の機関紙誌や地域新聞も)で掲載してくれるところはないだろうか、という相談だった。
タイトルはもちろん仮題だろうが、『令和元年房総半島台風』としたという。この原稿はこれからだいぶ手が入るだろう、そしてどこかで連載なりをされて、さらに磨きがかかり、ひょっとしたらブックレットや単行本になるかもしれない。ということで、私はここでサワリの書評をして、この原稿の「旅立ち にエールを送ることにする。

2019年9月9日に三浦半島をかすめ、東京湾を横断した台風15号は、房総半島を縦断する。台風一過に出現したビニールシートの覆われたおびただしい数の屋根屋根屋根の風景、そして長期にわたる停電の事態に、ご記憶のある方も多いはずだ。そして、およそ1ヶ月後の10月12日にふたたび台風19号がやってくる。伊豆半島から関東から福島の海岸を抜けたこの台風により、房総半島は再び被害を受けた。2020年2月、気象庁は、この台風15号を「令和元年房総半島台風」、そして台風19号を「令和元年東日本台風」と命名した。
特に9月の「令和元年房総半島台風」は、千葉県安房(あわ)郡鋸南町(きょなんまち)の地域に甚大な傷跡を残した。全壊27棟、半壊316棟、一部損壊は実に2017棟におよんだ。鋸南町は人口7536人、世帯数3598というから、全壊・半壊・一部損壊の合計数、2360棟というのは大変な数字である。
http://www.bousai.pref.chiba.lg.jp/servlet/....

加藤家の別荘があるのは、鋸南町の山側にあるA地区だ。両親がここに別荘をつくったのは、1994年(平成6)である。息子の加藤淳さん(1972〜)は翌年の95年に日本の大学を卒業し、ベルリンの大学に留学、ここで11年間を過ごし、2008年に帰国した。この間に父親(加藤雅毅)*1は1999年に死去している。淳さんは結婚して2児の父となり、東京台東区の隅田川近くに住み、翻訳・通訳・フリーライターとして活動している。いっぽう、母親(加藤久子)*2は横浜市の一人用のマンションに住む。この山荘はたまに母子で一緒にすごす唯一のホームとなっている。
台風前、淳さんは一月に一回ぐらい別荘に行っていたという。それに家族や母親と行く年中行事もあった。年末年始、ゴールデンウィーク、初夏の梅の収穫期時期、夏の野菜、秋の野菜の手入れや収穫などに。母親は月に2度は行くという。そのうち、一回は息子家族の車で、もう一回は近くに別荘を持つ、同じ横浜に住む元教員の女性の車で出かけていく。
山里の町道から細い道をおよそ300メートルばかりいったどん詰まり、山林の間にひらけた棚田の一角を宅地に変えて平屋の家を建てた。家の裏に山林をせおい、下に向かって使われなくなった棚田がひろがる。まわりに他の家はなく、家までの細い道の途中には街灯のある電柱が1本しかないため、夜は懐中電灯がないと歩けないという。

山荘の様子がわからない。12日の夕方になって、地元の友人のひとりから2枚の現場写真が送られてくる。台所側の屋根の上に杉の大木が1本倒れ込んでいる。また7、8本のほどの杉が幾重にもかさなったまま庭に覆いかぶさっている。家まで続く私道にも倒木が何本もあって、家の前まで車でアクセスできないという。
台風5日後の14日になって、ようやく淳さんは母親と鋸南に向かう。家は半壊、屋根はつぶれて、大きな穴がふたつあいていた。大木で家がつぶれなかったのは、亡くなった父親が、いつか息子の家族のために2階を増築したい、と工務店に頼んで鉄骨をいれておいてくれたおかげだということが、あとでわかる。
原稿は、前編「台風15号がみせたもの」、後編「災害支援チーム〈のらぼら〉が行く」の2章だてになっている。台風被災のなかで、著者はふたりの地元の友人に助けられ、さまざまなボランティア団体の面々と出会うことができた。災害のボランティアというと、東日本大震災で三陸海岸に向かったメンバーが私のまわりにも多い。淳さん自身も、宮城の亘と福島の南相馬へ2回、ボランティアに参加している。そんな淳さんの前にプロの技術系災害支援団体のボランティア・メンバーがやってきて、加藤山荘の復旧をしてくれる。いろんな人たちに助けられた。空師(そらし)も来た。自衛隊習志野駐屯地第一空挺団の13名の小部隊もやって来て、屋根にブルーシートをはってくれた。
そのなかでも、ふたつのボランティア・チームが実に素晴らしい。背中に「通りすがりの暇人(ひまじん)」の文字が入ったカラフルなロンTを着たショウジさん。ふだんの平日は高所の電気工事を生業にしているという。もう一つは、赤いポロシャツを着たクマとツルの「のらぼら」グループ。野良(のら)に生きるボランティア、野良ボラ、つまり「のらぼら」だ。ツルの本業は商社マンだ。かれらはユンボなどの重機、エンジン系機械、刃物系機器、ダンプなどを投入して、どんな災害現場にも対応してきた。
ショウジさんがいう。「感謝してくれるのはありがたいけど、連絡先は教えられないなあ。感謝してくれるなら、次の被災地でボランティアして、困っているひと助けてください」
そして、作業が終われば、彼らは何事もなかったように、手だけ振って笑顔をのこし、風のように去っていく。翌日には自分の職場で働いている。そしてまた土日に変身する。まるで月光仮面かスーパーマンだ。いや彼らは被災地をまわる漂泊民(野良ボラ)だ。
鋸南の山間から彼らは去っていったが、家はみごとに復活し、そこに新しい希望が生まれた。
そして家のまわりの倒木からも教えられた。
「山は死んでいる。何もしない人間のせいで、山は死んでいる
そう倒木は言う。

*1 加藤雅毅(1936〜1999)本コラムの(11)(48)を参照。
*2 加藤久子(1937〜)法政大学沖縄文化研究所研究員 著書=『海の狩人 沖縄漁民—糸満ウミンチュの歴史と生活誌』(現代書館、2012)他 新宿書房のコラムも参照。

実は今年の1月、加藤淳さんから、初めての著書『世紀末ベルリン滞在記—移民/労働/難民』(彩流社、2020)が送られてきた。1997年から始まる11年間のベルリン滞在記だ。この本は鋸南の家にこもりながらまとめたものだという。最後の仕上げは、台風15号で被災したこの山荘でしたのかもしれない。

5月2日の『朝日新聞』朝刊、「折々のことば」(鷲田清一)は、『世紀末ベルリン滞在』から、ことばを引用している。「個が強烈に個でいられる。マイノリティに約束された境地です。・・・加藤淳」