(66)九段下・耳袋 其のじゅうに
[2020/4/10]

元祖・泡沫桀人死す

4月3日に美術家・秋山祐徳太子さんが亡くなった。秋山さんは見世物学会の理事でもあり、新宿書房とも縁があった。新聞各紙、ニュースサイトではほぼ、同文の死亡記事(訃報)がのった。そこでこれを補充するために、雑誌『美術手帖』のサイトを以下に引用する(誤植、一部の表記、年号などを訂正・加筆した)。

「ポップ・ハプニング」や東京都知事選立候補などのパフォーマンスで知られる美術家の秋山祐徳太子が、4月3日、老衰のため逝去した。享年85。
秋山は1935年東京都生まれ。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻科で学び、岐阜市民センター(現・岐阜市文化センター)、金公園、長良川河畔を舞台に開催された「現代美術の祭典 アンデパンダン・アート・フェスティバル」(1965)に参加。その後、菓子のキャラメル「グリコ」のパッケージを模して、日の丸を背にランニングシャツ姿で走る「ダリコ」をはじめ、「ポップ・ハプニング」と称するパフォーマンスで注目を集める。
1973年の初の彫刻展以降は、ブリキによる彫刻作品を次々と発表。また、政治のポップ・アート化を目指し、75年と79年の二度にわたり東京都知事選に立候補(1975年は3101票、1979年は4144票、それぞれ獲得。どちらも泡沫候補となり供託金100万円が没収される)。立候補時のポスターは《東京都知事立候補ポスター》(1975)として、国立国際美術館に収蔵されている。
主な参加展覧会に「現代風刺画展」(東京都美術館、1978)、「岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル─20年後の動向」展(岐阜県立美術館、1984)、「前衛の日本展」(パリ、ポンピドゥー・センター、1986)、「美術の国の人形たち」(宮城県美術館、1989)、「秋山祐徳太子の世界展」(池田20世紀美術館、1994)、「秋山祐徳太子+しりあがり寿 ブリキの方舟」(広島市現代美術館、2011〜12)など。
赤瀬川原平、高梨豊とともにライカをはじめとする機械式カメラを愛好する「ライカ同盟」も結成、写真作品の発表や著述も行なった。
また『通俗的芸術論―ポップ・アートのたたかい』(土曜美術社、1985)、『泡沫桀人列伝―知られざる超前衛』(二玄社、2002)、『ブリキ男』(晶文社、2007)、『天然老人―こんな楽しい独居生活』 (アスキー新書、2008)、『恥の美学』(芸術新聞社、2009)、『秋山祐徳太子の母』(新潮社、2015)などの著書がある。

都築響一さんのブログの追悼記事がとてもいい。自著『独居老人スタイル』(筑摩書房、2013、後にちくま文庫、2019)の取材時に撮った秋山宅の写真が圧巻、まさにアートだ。秋山さんは1997年に母上を亡くされて以来、独居生活、そして独居老人生活をしていた。
また、秋山祐徳太子さんの作品の画像をみるには、以下の2つのサイトがおおいに役に立つ。
ときの忘れもの
芸術新聞社

秋山の『泡沫桀人列伝』は、「松岡正剛の千夜千冊」の第818夜に、同書が取り上げられている。これを読むと、正統派教養人の松岡さんもさすがにタジタジの様子だ。
同書には50人の泡沫桀人が登場する。その中に見世物学会の関係では美術家の真島直子さんと飴細工師の坂入尚文さんもいる。秋山さんとは見世物学会の総会、その後の懇親会で、いつも親しくさせていただいた。2017年11月26日に東京浅草・木馬亭で開かれた第19回総会の第二部の座談会に登壇されたのが、最後だと思う。
秋山祐徳太子さん。日の丸を背にダリコのランニング姿(正式なポーズは万歳をし、左足をあげる)で、この新型コレラ騒ぎでガランとした街に向かって何と叫んで逝ったのであろうか?

『晴れた日に・・・雨の日に・・・』余聞

コラム(64)で取り上げた『晴れた日に・・・雨の日に・・・』の著者、山村茂雄さんからお便りがあった。宣伝技術グループによる宣伝作品について、次のようなお答えをいただいた。

「お問い合わせの当時の宣伝物をまとめて紹介したもの(印刷物)はありませんが、〈初期原水爆禁止運動の聞き取りプロジェクト〉で話した折に私が持参した手許にあった宣伝物が、第五福竜丸平和協会資料室に保存されていると思います。」

ぜひ一度その資料室にうかがい、宣伝技術グループによる作品類を見たいものだ。

「第6回世界大会ポスターのデザインは杉浦康平さんです。子どもの顔は、握り飯をもって母の側に佇む少年の顔、山端庸介(やまはた・ようすけ)さんの長崎被曝写真。緑と墨の2色刷作品、色校で凸版板橋工場に杉浦さんとご一緒したことを記憶しています。」 

第6回原水爆禁止世界大会は1960年、安保闘争の余韻の残る夏の東京で開かれた。山端庸介(1917〜1966)は写真家で陸軍省西部軍報道部員として、原爆投下翌日に長崎市内に入り、100点以上の記録写真を撮影した。「おにぎりを持つ少年」は1945年8月10日、爆心地から1.5キロの場所で撮影されたものだ。山端の写真は、原爆に関するすべての報道を規制したGHQのプレスコードが解除される、1952年9月まで一般に公開されなかった(岡村幸宣『未来へー原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011―2016』を参照)。