(20)小さな映画会
[2019/5/10]

5月2日の午後、1時間ばかりの小さな映画会をもった。場所は八ケ岳山麓にある山小屋。参加者は12名。長兄夫婦と孫娘の3人、次兄夫婦2人、次兄長男夫婦と子ども2人の4人、そしてわれわれ夫婦と妻の母の3人である。上映映画は2本。

『北国の米』1944(昭和19)年
白黒 31分 35ミリ
企画=国際文化振興会
製作=朝日映画社*
占領軍の検閲番号22
スタッフ:
構成(脚本・演出)=村山英治
撮影=永塚一栄、柴山郁美
録音=近藤健郎
編集=西條賢二
音楽=坂本良隆
解説=瀧沢修

*1943年7月、朝日映画製作が芸術映画社(GES)などを吸収合併、「朝日映画社」になる。

1933年2月4日、長野県内の教員や共産党関係者約600人(うち教員は208人)が治安維持法違反容疑で検挙されたいわゆる「2・4事件」。村山英治(1912〜2001)は当時22歳、上水内郡浅川小学校の教員(訓導)だった。事件は8月になってようやく報道解禁され、当時は「長野県教員赤化事件」と呼ばれた。翌年5月に村山は懲役2年執行猶予3年の判決を受け、長野署での留置、長野刑務所と1年3ヶ月間の拘留をへて釈放される。その後上京、1937年4月、大村英之助の芸術映画社に入社した。この映画は村山英治が32歳の時の作品である。

昭和19年(1944)から昭和20年までの1年間は、北海道にロケで滞在。撮影は4月から10月まで、11月には完成したようだ。
『来し方の記 7』 (信濃毎日新聞社、1974年)では、村山英治は次のように書いている。
「敗戦にいたる昭和二十年の前半は、一年間のほとんどを北海道で過ごした。これは国際文化振興会というところの委託で、海外に日本の文化を紹介する映画だが、本来南方の作物である稲を寒冷な北海道にまで北上させ、日本有数の穀倉地帯をつくり上げた北方稲作と、欧米の人びとには親しみやすい北海道の酪農を紹介する二部作だった。私は脚本と監督を兼ねた。
『北海道の稲作』(原題か?)では、稲と言葉がかわせるといわれたほどの篤農家の細かな動作をカメラで追求した。北海道の稲作は生育期間を長くするために、陸苗代(おかなわしろ)に夜は被覆するが、朝日が射すと筵(むしろ)をとってやる。筵をめくって稲の顔色を見る老農の表情を、カメラマンは大地に寝転がって撮影した。芝山(柴山の間違い)という若い名カメラマンだった」(同書、p190〜191)

国際文化振興会は1934(昭和9)年に設立された外務省の外郭団体で日本文化を海外に紹介することを目的とした組織、略称はKBSといった。1972年に今の国際交流基金となった。KBSが1930年代から50年代までに製作した映画シリーズは「KBS文化映画」と呼ばれ、現在39本が保存されている。それによると、本作は「北国の米(日本の米)」のタイトルで、英語タイトルはRice in northern districtとなっており、制作年1944?31min. B/W Japanese narration とある。だれもが予想もしなかった敗戦の前年になっても海外向けの文化映画を撮っていたことには驚くが、むしろ敗戦を迎えても、日常の生活や仕事は変わらず続いていたのが、一般庶民の現実なのだろう。

映画では稲の種の温冷法というのだろうか、お風呂の湯に入れたり、寒い川の中に袋に入れた種を一晩浸けたり、最後はホルマリンで消毒したりして、苗代に蒔く。育苗用被覆資材は今ではビニールを使うだろうが、当時は框(かまち)の上に障子で覆って寒さから保護する。障子紙は風に強いし防寒に向いている。昼の強い日射し時、障子をあげて太陽の光に稲の若芽をさらす。
田んぼでは馬による農耕が始まっている。馬による田起こしだ。画面の右から左に馬と農夫が移動する、同時に左から右へと別の人馬が移動する、さらにその奥と、そしてまた奥にと、幾重ものまるで影絵のシルエットのように人馬が行き来する。それは、印象派絵画のようなシーンだ。農婦が手植えする田植えが終わると、日に日に成長する稲。これを毎朝、稲と会話して様子を見回る老農。いよいよ刈り入れというときに、放射冷却による早霜が降りることもある。畔の四隅ごとに麦わらを燃やす天にのびる長い煙の柱、この夜のシーンが美しい。そうしていよいよ稲刈りだ。当時は機械などない、すべてが手仕事だ。
柴山郁美キャメラマンはこの撮影中に招集され、レイテ島で戦死した。もう一人の永塚一栄キャメラマンは戦後、東横(東映)、日活で活躍、鈴木清順の映画を数多く撮っているが、本作のことは自身のフィルモグラフィーに入っていない。なお、村山英治の弟、村山新治は助監督時代、『泣虫記者』(52、春原政久監督、東映)で永塚一栄キャメラマンの下で仕事をすることになるのも不思議な縁だ。

「稲作編が一人の農民を追う地味な作品だったので」(村山、前掲書)、酪農編は酪農家の子弟を教育する『十勝農学校』という映画になった。しかし戦後になって占領軍の検閲で、軍国主義的な全寮生活などが問題となり、原版が没収されて、いまも行方不明だという。前に紹介した「KBS文化映画」のリストにも入っていない。

『号笛(ごうてき)なりやまず』1949(昭和24)年
白黒 36分 35ミリ
企画=労映国鉄映画製作団 (労映=労働組合映画協議会)
スタッフ:
製作=労映国鉄映画製作団、川井徳一
脚本=大澤幹夫
監督(演出)=浅野辰雄
助監督=村山新治
製作助手=岡野三郎
撮影=中澤博治
録音=安恵重遠
音楽=箕作秋吉
合唱=国鉄労働組合本省支部合唱団
製作担当=新世界映画社

タイトルは『号笛鳴りやまず』の表記もあるが(佐藤忠男編著『シリーズ日本のドキュメンタリー5 資料編』岩波書店、2010年など)、画面のタイトルは『号笛なりやまず』である。
本作を製作中の1949年2月、新世界映画社(1947年1月、朝日映画社が社名を「新世界映画社」に改称)が倒産。映画は仕上げ段階に入っていたが、製作を担当していた岡野三郎の機転で、岡野の母校の日大芸術学部の江古田校舎に持ち込み、編集を完成させ、無事、国労に納品出来た(『村山新治、上野発五時三五分』新宿書房、2018年、p51〜54)。
この時代は一体どんなことがあったのだろうか。1947年2・1ゼネストがマッカーサーの声明で中止、48年8月第三次東宝争議で米占領軍が出動、そして吉田内閣による国鉄職員大量整理政策で労使が対立している最中の49年には、6月に日本国有鉄道(国鉄)が公共企業体として発足し、7月下山事件、三鷹事件、8月松川事件と米軍占領下で国鉄にからんだ奇怪な事件がつぎつぎと起こる(松本清張『日本の黒い霧』)、そして翌年50年6月には朝鮮戦争が始まる、そんな時代だ。

さて、本作に戻る。大衆文化評論家の指田文夫さんのブログから借用させてもらう。

「……、1949年国鉄労働組合の(一応新世界映画社になっているが)浅野辰雄監督、大沢幹夫脚本の『号笛なりやまず』だった。完全に国労の資金で作った組合宣伝映画だが、おそらく日本映画史上では土本典明監督の『ある機関助士』と並び最高の蒸気機関車映画*だろう。
国労60万労働者のプロパガンダ映画なので、貨物操車場での人力による貨物列車の入替え作業やSLの釜たき等の労働が克明に記録されている。
当時は、戦後の労働運動の最大の高揚期(東宝のストライキと同時期)で、労働者の苛烈な労働と、また男らしい作業、ある意味ではアクション映画とも見られる映像がとても上手くミックスされている。
職場の様子も非常に面白く、毎月の賃金を渡す場面があるが、なんと野外の操車場の一隅に机を置き、そこで渡していて、そこには様々な物売りの女性が来ていて、買物のやり取りをしている。
今でも、役所の庁舎内や地下では売店があり、物を売っているが、当時は野外でやっていたのだろう。」

昼休みの社員食堂の前に、背広、傘、靴などを売る出入りの物売が店をひろげているのは、昭和の風物詩だろう。国鉄では職場はすべて線路である。詰め所の前にまで物売がやって来た。

「また、音楽が箕作秋吉⁑なのが貴重。
彼は、日本の現代音楽の代表的な作曲家の一人だが、映画音楽は少なく、映画音楽は初めて聞いたが、日本的な調性を生かした響きが非常に良い。
中では、“雨や風には負けないが、かわいいあの娘にゃ負ける・・・”という演歌調の曲がおかしい。ハーモニカで奏でられるのが非常に胸にしみる。」

蒸気機関車映画の傑作と言われ、ナレーションを排し音楽と効果音、再現ドラマを交えて国鉄労働者の団結を訴える。

*蒸気機関車の記録映画傑作3作といわれる作品は以下の通り。
『機関車C57』芸術映画社、今泉善珠監督、1940年。当時の最新鋭の蒸気機関車C57をモチーフに各部署の鉄道員たちの生活を浮彫りにしてみせた秀作。
『号笛なりやまず』浅野辰雄監督、1949年(本作)。
『ある機関助手』岩波映画製作所、土本典昭監督、1963年。電化を目前に控えた常磐線水戸〜上野間を運行する蒸気機関士と助手の労働をダイナミックに綴った作品

⁑作曲家の箕作秋吉(みつくり・しゅうきち 1895〜1971)は1947年第18回メーデーのために募集した詩に作曲(『働く人のために(合唱)』)をしている。

命懸けの貨物車入れ替え作業がすさまじい。かれらは本当にボロボロの服を着ているのだ。「風呂場に石けんを」「新しい機関車を」「新しい作業制服を」・・・。音声のない画面に手書き文字が踊る。

本上映会の企画者は村山英世(次兄。元・桜映画社社長、現・記録映画保存センター事務局長)。長兄は村山正実(映画監督)、次兄の長男は村山憲太郎(現・桜映画社社長)。そして村山英治はわたしたち兄弟の父であり、村山新治は叔父である。最後に紹介しよう。妻の母、私の義母、岡野萬沙子は『号笛なりやまず』の製作補として仕上げに貢献したあの岡野三郎の妻である。5月4日に満94歳の誕生日を迎えた萬沙子さん、残念なことに『号笛なりやまず』の当時のことはまったく憶えていなかった。
戦後の朝日映画社に村山英治、新治の兄弟(彼らは芸術映画社時代から一緒)と岡野三郎が在籍していたことになる。1949年2月に新世界映画社(旧・朝日映画社)が倒産し、およそ200人の社員が路頭に迷い、半数近くが映画界を去った。岡野三郎もそのひとりだ。村山英治は理研映画に移り、村山新治は太泉映画(後の東映)に入った。