(81)古河力作と古河三樹松
[2020/7/23]

私が平凡社にいたのは1970年(昭和45)から1980年(昭和55)までの間だ。平凡社には立派な図書室があって、編集局の下に所属する「資料課」が管理運営していた。当時、千代田区四番町にあった新社屋の一階奥にあり、地下階をいれると2フロアーを持つ図書室だった。『平凡社六十年史』(1974)に記載されている「役員・社員所属一覧」によれば、この資料課には課長以下、主任が2人、課員が5名の計8名のスタッフがいた。平凡社は事典類、全集物の編集が多く、社内(インハウス)作業が中心になる。原稿のリライト、原稿のファクトチェック、整理、校閲、校正の作業にはたくさんの参考図書類が必要になる。そのため、平凡社の図書室はいち出版社にはぜいたくなほど、冊数も内容も充実していた。ここに頻繁に新刊の雑誌や書籍を風呂敷に包んで運んでくる小柄な書店のオジさんがいた。
『死ぬまで編集者気分―新日本文学会・平凡社・マイクロソフト』(小林祥一郎著、2012、新宿書房)には、こんなくだりがある。
「新しい図書の購入は、古河書店を介しておこなうのがしきたりのようになっていた。図書室も社員もたいていそうしていた。この書店は四ツ谷駅のそばの公設市場のなかに小店があり、・・・」
古河(ふるかわ)書店から平凡社までは、四谷の土手の下を通り、突き当りの主婦会館を左折し、雙葉学園の塀沿いの道をまっすぐに行く。日本テレビ通りも横切り、上智大の国際部の前を過ぎ、千代田女学園から東郷公園へ通じる道をさらに歩く。平凡社はその千代田女学園の手前左にあった。
この古河書店は、古河三樹松(みきまつ)さんが、ひとりで経営していた。私も三樹松さんが、小さな身体が隠れるほどの大きな風呂敷包みを運ぶ姿を何回も見ていたし、公設市場の中にあったその書店にも行ったこともあった。三樹松さんは、大逆事件で死刑になった古河力作(りきさく)の実弟である。古河力作は1911年(明治44)1月24日、牛込区市谷富久町にあった東京監獄において11番目の処刑者として、午後3時58分絶命している。享年28だった。この時、弟の三樹松さんは10歳だった。


丸木位里・丸木俊「大逆事件」(1989)左の管野すがの横に、古河力作。右には田中正造

作家の水上勉(みずかみ・つとむ、当時はみなかみ・つとむ、 1919〜2004)が、平凡社の雑誌『太陽』で連載(1972年1月号〜73年6月号)した小説をまとめて『古河力作の生涯』を73年11月に出版していた。このことは平凡社に在職していた私も記憶にある。

いまあらためて、『水上勉全集』第17巻(中央公論社、1978)に収録された小説『古河力作の生涯』を読んでみる。古河力作は福井県遠敷郡雲浜(うんぴん)村出身、水上勉は福井県大飯郡本郷村出身。同じ若狭生まれの水上は「ながいあいだ古河力作さんのことを考えてきていて、いつかこの人の死について書かねばと思っていた」そうだ(第17巻「あとがき」から)。執筆までに大きく動いたのは、雑誌『太陽』の担当編集者に古河力作の弟(三樹松)を紹介してもらい、たくさんの資料を提供してもらったことだ。『水上勉全集』第26巻は水上の戯曲集の巻で、7作品が収められている。その中に『冬の柩――古河力作の生涯』もある。これは1977年7月の名古屋の新劇団合同公演用のために書き下ろした戯曲だ。第26巻の「あとがき」で水上はこんなことを書いている。「小説はセミドキュメントといっていい書き方になっているのを、戯曲の方はどちらかというと、物語性のおもしろさが出たかと思う」。名古屋公演の演出は文学座の木村光一である。

古河力作はなみ外れた小男だったという。ある本には身長四尺四寸と書いてあった。およそ1メートル33センチだろうか。弟の三樹松さんもたいへん小柄だった。実は三樹松さんは戦前、平凡社の社員だった。そして三樹松さんが亡くなったのは1995年。これ以降、古河さんに関する文献(古書目録、雑誌、書籍)がいろいろと出版された。

●『月の輪書林 古書目録9 特集 古河三樹松散歩』(1996)
●『別冊本の雑誌16 古本の雑誌』(2012)p75〜77「活字探偵団『古河三樹松散歩』は追悼号の傑作である!」(『本の雑誌』1996年5月号より)
●『彷書月刊』(1996年6月号)「特集=古河三樹松というひと 「売文社」から「平凡社」まで」「古河三樹松さんインタビュー」の収録は1993年、「古書目録『古河三樹松散歩』解体日記」(高橋徹)など
●『古本屋 月の輪書林』(高橋徹著、晶文社、1998)「断片・古河三樹松」
●『月の輪書林それから』(高橋徹著、晶文社、2005)「懐かしい人・古河三樹松」

これらの文献から、古河三樹松さんのライフ・ヒストリーがおぼろげながらわかる。

・1910年(明治43)、若狭から上京
・1917、1918年(大正6、7年)売文社入社。添田知道の「あとがま」として。社長は当時、堺利彦
・1920年(大正9)第1回メーデー(上野の山での集会のみ)。下中弥三郎が代表演説
*平凡社は1914年(大正3)6月12日に創業
・1921年(大正10)三樹松、第2回メーデーに初めて参加(芝浦から上野へデモ行進)
・1926年(大正15)根岸正吉の妹の柳(りゅう)と結婚
・労働運動社で大杉栄の全集の手伝い。近藤憲二を知る
・平凡社入社、新居格の紹介。淡路町にあった平凡社へ。仕事は封書書き
・1927年(昭和2年)、平凡社社員になる(給料は30円か35円)
・『大衆文学全集』の編集・校正を担当。編集長は橋本憲三(高群逸枝の夫)。1冊千ページ、定価1円。第1回配本は白井喬二『新撰組』。全60巻を5年間毎月刊行。印刷は共同印刷
(「活字探偵団『古河三樹松散歩』は追悼号の傑作である!」(『本の雑誌』1996年5月号)にある「古河三樹松・平凡社在社中編集担当作品一覧」が役に立つ)


平凡社社史より古河三樹松(右から3人目)


同・前列一番右

・戦後、東京の四谷に古河書店を開く。古河書店は四ツ谷駅の横、新四谷見附橋際の「四谷見附小売市場」の中にあった(同小売市場はその後改築され「四谷グリーンマーケット」となり、2008年(平成20年)3月まで存続した)
・古河三樹松は83歳(1984年=昭和59年)まで現役の書店主だった
・1995年(平成7年)5月18日、古河三樹松死去。享年94


古河書店の外景

古河書店のあったところは、更地となり、いまは土手に戻っている。そこから、古河力作らが収監され処刑された東京監獄跡までは歩いて30分ぐらいだろうか。1910年(明治12年)12月10日から始まった大逆事件の公判は、当時日比谷にあった大審院で行なわれた。公判日のたびに、市ヶ谷の東京監獄から被告人たちを乗せた「檻車」が、四ツ谷駅前を通っていった。三樹松さんはそのことをいつも考えていたのかもしれない。そのために、そこに古河書店を開いたのではないだろうか。


富久町児童遊園内にて

古河三樹松さんはもうひとつの顔をもつ。見世物研究家・古河三樹(ふるかわ・みき)である。見世物、ストリップ、女相撲をこよなく愛し、『江戸時代大相撲』(雄山閣出版、1968)、『見世物の歴史』(雄山閣出版、1970。改題して『図説 庶民芸能−江戸の見世物』1993)などの著書を出版している。『図説 庶民芸能−江戸の見世物』の「あとがき」の中で三樹松さんは興味深いことを書いている。
「青年時代に放浪の旅先で、世界各国人の男女小人島の一座に会い、身長わずか四尺、いわば因果物の私は一座に加わりたくて大へん憧れたこともある。兼ねて見世物に異常の興味をもっていた私は、今のうちに見世物に関する一本をまとめたい、資料として残さなければならないという気持が非常に強いのである。」
ところで、われわれの「見世物学会」ができたのは1999年。しかし、すでにこの世に古河三樹松さんはいなかった。

参考文献(上記で記したもの以外)
・『パンとペン―社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(黒岩比佐子、講談社文庫、2013)
・『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版、2019)「古河力作」「古河三樹松」などの項目
・『原爆の図 丸木位里と丸木俊の芸術』(原爆の図丸木美術館、2019)
・本コラムの(73)(74)も参照のこと