(16)サーカス博覧会が丸木美術館にやって来た!
[2019/4/5]

4月2日、朝早く起きてパル(ラブ、もうすぐ13歳)と散歩。朝飯抜きで西武新宿線の鷺ノ宮から急行に乗る。田無から各駅となって終点の本川越に。この時間帯、都心と反対方向なのに通勤客が意外と多い。本川越から東武東上線の川越まで歩き、小川町行に乗り換えて、東松山に着いたのは午前8時半過ぎ。構内の喫茶店でモーニング。そこから市内循環バスに乗る。降りる時、運転手さんに右手の道を真っすぐ行けといわれ、その通りにトボトボ歩くこと15分。流通倉庫が並び、プレハブのユニットハウスが野積みされた先に、目指す「原爆の図 丸木美術館」があった。

本日から「サーカス博覧会」が開催!Circus came to Maruki Gallery!開場9時を30分過ぎて、来場者は私が第1号。1F会場の奥では、学芸員の岡村幸宣さん、この博覧会の仕掛け人・後藤秀聖さんのふたりが、釘やトンカチなどを使って展示設営の真っ最中。チラシや絵葉書をコーナーシールで押さえ、ガラスケースに収める。開催初日を迎えても、まだ作業は終わっていないようだ。しばらくして、展示協力者のひとり、大道芸の上島敏昭さんも来館。音や映像の準備もまだ終わらない。しかし、大きなサーカス絵看板が展示されているメインの部屋からはもう、タンカ、呼び込みのダミ声や観客の歓声、動物たちの鳴き声が聞こえてくるようだ。


展示は全4幕構成になっていて、以下のような内容になっている(text by後藤秀聖)。

第1幕 日本のサーカス、近世から近代へ

江戸から幕末を経て近世も終わり、時代は近代国家へと変貌を遂げつつある明治の日本。開国以降、元治元(1864)年にリズリー一座、明治4(1871)年にはスリエ一座、明治19(1886)年にはチャリネ一座が来日して興行を行います。

こうした外国のサーカス一座が一世を風靡し、日本の曲馬団はしだいにサーカスを名乗り始めます。江戸時代に人気を集めた珍獣の見世物を継承しつつ、動物に芸をしこませ曲馬(馬芝居)に代表される日本の近代サーカスは、日本語で「曲馬団」と称されます。おなじく日本の軽業一座も、外国のサーカス一座の玉乗り・自転車芸・組体操・梯子の芸を取り入れて演じながら、それを売りにするサーカス一座へと進展していきます。

明治から昭和にかけて、全国的に庶民の娯楽として定着した日本のサーカスは、戦時下の昭和18(1943)年には猛獣殺処分、興行取り締まりの命により、営業停止にまで追い込まれますが、戦後ふたたび黄金期を迎えます。昭和31(1956)年には日本仮設興行組合が設立され、サーカスや小見世物まで90団体が加盟し、各地の都市の盛り場や社寺の境内などの空閑地には仮設小屋を建てた興行が賑わいをみせていました。

しかしいっぽうで昭和22(1947)年の児童福祉法、労働基準法により年少者の曲芸の禁止。現在は映像の仮想現実の娯楽が身近になり、空閑地を目にすることのない生活のなかで、サーカスや見世物は、遠い存在となっています。とはいえ、天幕の曲芸に魅了された人びとの記憶のなかには、今もなお遠くても近い存在として生きています。

  

第2幕 タカマチの見世物小屋、女相撲からサーカスへ

かつて全国各地の縁日・祭礼、大規模なタカマチ(高市)には、サーカスに加えて、複数の見世物小屋がかかり、露天商(香具師、テキヤ)が軒を連ねて立ち並びました。

たとえば大正末期から1990年代後半まで見世物を興行していた安田興行社は、初代の安田与七が旗揚げし、昭和39(1964)年に2代目を継いだ安田里美、そして当代の梅田陸男へと、3代にわたり90年近く見世物やお化け屋敷、一時サーカスの演目での興行を行ってきました。安田里美は「人体の驚異人間ポンプショー」として、碁石や金魚、剃刃、ナイフなどを飲み込んで吐き出す芸を披露し、「最後の見世物芸人」と称されました。

祭りの喧騒のなか、異界の入り口にふさわしい怪しい輝きに満ちた仮設の天幕小屋と絵看板、ダミ声のタンカは、「かに男」や「たこ娘」といった因縁・因果もの、ヘビを食べる「マキツギ」の実演、日本中の怪奇談を集めたお化け屋敷など見世物小屋に観客を呼び込み、それに詰めかけた人びとは、見世物の世界に驚き、おののき、だまされながも、魅了されてきました。

こうした仮設小屋の一座のなかでも、山形県高擶(たかだま)村(現・天童市)を発祥とする女相撲興行は、女力士の相撲取り組み・怪力の芸・歌と踊りの演目で好評を博し、全国各地や海外を巡業しました。しかし、女相撲興行のうち、高擶女相撲の一座は、その人気の高まりが下火になった戦後には、旧来の芸にサーカスの緒芸を取り入れ、タカタマサーカスとして興行を続けていた。また、戦後に生まれた女子プレスは、女相撲と同系統にあたる見世物といえます。

  

第3幕 本橋成一の記録した韓国のサーカス

写真家・映画監督の本橋成一は、1968年「炭鉱〈ヤマ〉」で第5回太陽賞受賞以来、サーカス、上野駅、屠場、築地魚河岸、大衆演劇など市井の人びとの営みを写真に撮り続けてきました。1990年以降は、チェルノブイリ原発事故とその被災地ベラルーシへ通いながら、汚染地帯で暮らす人びとをテーマに、社会の基底にある人間の営みの豊かさを記録しています。

本橋は、1970年代より日本のサーカス、1980年代より韓国のサーカスを取材しています。サーカス団員全員が、家族として仮設小屋で寝食を共に過ごし、開演すれば、舞台で命がけの芸をみせて脚光をあびる彼らの姿。丸太を組んで数百人収容の天幕の小屋を建てる光景 ─。そうした、今はなきサーカス一座で生きる人びとの側に、カメラは向けられています。

本展では、韓国のサーカスの写真作品をとおして、日本のサーカスが海峡をわたり日本のサーカスが海峡を渡り隣国に残したサーカス文化・芸能を紹介します。


第4幕 絵本のなかのサーカス(2F)

天幕の円形劇場でくり広げられる曲芸、さながら渡り鳥のように旅から旅をくり返すサーカス一座は、芸術家たちに多くの想像力を与え、絵本のなかでは、愛嬌のある動物たちとともに、子どもたちに親しまれてきました。

画家・丸木俊は、夫・位里との《原爆の図》シリーズの共同制作とともに、絵本の仕事を数多く手がけています。1970年『ぶらんこのり』は、童話作家・詩人の佐藤義美が1948年に発表した童話をもとに、丸木俊が想像力をひろげ、サーカスの「ぶらんこのり」が、ぶらんこからぶらんこに飛び移る一瞬の出来事を幻想的に描いた絵本です。

絵本作家・スズキコージは、1972年『ゆきむすめ』を発表し、2008年『ブラッキンダー』で第14回日本絵本賞大賞に輝くなど数々の絵本を出版。さらには絵画、映画劇場ポスター、ライブペインティング、ワークショップなど、多彩な表現活動を展開しています。1980年『ぼくのピエロー跳べイカロスの翼』は、実在の人物・栗原徹の生涯を描いた作家・草鹿宏(または詩人・平林敏彦)のノンフィクション作品をもとにした絵本です。

本展では両者の絵本原画をとおして、無国籍なうつくしさを讃え、豊かな表現力、好奇心とユーモア感覚に満ちあふれた作品の世界を紹介します。


昼近くなっても、展示作業は続く。ふたりの仕事が一段落したら、近くの蕎麦屋に行って昼飯にしようと、上島さんと私は先に外に出る。美術館の下を流れる都幾川が見えるベンチに座り、しばらく彼らを待つ。そのうち、上島さんはやおら横笛を吹きはじめる。大道芸の練習なのだろうか。桜の花の下、風と笛の音の合奏がはじまる。

蕎麦屋で岡村さんから聞いた話だと東松山駅、森林公園駅(1971年に開業)、つきのわ駅(2002年に開業)の南に広がる、丸木美術館から見ると北に広がる、大地には戦時中に飛行場が建設されたという。首都防空のため、関東各地に陸軍の航空基地が建設された。1945(昭和20)年1月には「関東松山飛行場」(地元の方は「唐子飛行場」と呼んでいるとのこと)建設のため、東武東上線の武州松山(現・東松山)〜武蔵嵐山の区間は飛行場を迂回し、大きく北にカーブしている。結局、この関東松山飛行場は完成を見ずに敗戦を迎えた。 この日の午後、丸木美術館にはテレビ埼玉の取材が入り、『朝日新聞』の関東版の夕刊には「サーカス博覧会」の小さな紹介記事が出た。


追記:丸木美術館の会場入り口では、小社の見世物関連の書籍を販売している。ご購入の方には、3年前に上島敏昭さんの選で作成した目録「見世物関連図書(抄)2000年〜2016年」+「追補(2017年〜2019年1月) (合計7頁)をプレゼントしている。