(3)映画4兄弟
[2016/6/4]

 ときどき、夢中になって本を作ることがある。いや、いつでも熱中して本を作っているが、どうしても力が入ってしまう本がマレにある。

 村山新治(むらやま・しんじ)という映画監督をご存知だろうか。新作の2本の映画が2週間おきに町の映画館にかかっていた、昭和戦後の映画黄金期。それこそ20日ぐらいの期間で製作された「プログラム・ピクチャー」。

 その時代の1957年に『警視庁物語 上野発五時三五分』(東映・東京)で監督デビューしたのが、村山新治である。この「警視庁物語シリーズ」のほか、『白い粉の恐怖』『七つ弾丸』『故郷は緑なりき』などの作品を思い浮かべるひともいるかもしれない。いわゆる「東映リアリズム」の潮流を作ったひとりであり、後にアクションから風俗までその作品の幅をひろげ、テレビ映画に舞台を移してからは「ザ・ガードマン」「キイハンター」などのシリーズも手がけた。

 雑誌『映画芸術』の2000年夏号(第391号)から2001年春号(第394号)までの4号にわたって掲載された、村山新治の「私が関わった映画、その時代」。この連載と並行して掲載されたのが、連続4回の「特別座談会 東映で村山新治の助監督を務めた両巨匠が読み解く“その時代”」。司会は同誌編集長で脚本家で監督でもある荒井晴彦。出席者は村山新治と「両巨匠」のふたり。この「両巨匠」とは深作欣二監督と澤井信一郎監督である。片方の巨匠、深作欣二監督はこの2年後の2003年に惜しくも72歳で亡くなっている。

 村山新治は実は私の叔父である。私の父、村山英治の弟にあたる。今から、5年前の夏、雑誌に掲載されて10年以上も過ぎたある日、私のところに長兄の村山正実がやってきて、なんとかこれを単行本にしようよ、このままにしておくのはもったいない、と出版の話を持ち込んできた。それには、連載だけでなく、その座談会も収録し、さらに監督デビュー直後で終わっているあの連載以降に撮った映画、テレビなどの監督作品について、あらためて村山新治本人にインタビューし、これで1冊の本にしよう、さらに詳細なフィルモグラフィーも入れてと、どんどん話は膨らんでいった。

 さっそく、2011年の夏から秋にかけて、毎月1回、叔父の家で私と兄でインタビューを敢行。速記の永田典子さんに10時間以上の録音を文字に起こしてもらい、これをなんとか原稿にした。

 その間、写真家の大木茂さん(彼は写真集『汽罐車』の著者だが、東映の映画スチールも数多く担当している)に、著者近影を撮ってもらい、アルバム、当時のシナリオなどの大量の資料も複写してもらった。

 ようやく原稿整理も終わり、著者によるチェックも済んで、いよいよ進行というところで、全体の構成などについて、議論や注文が出てきた。ここでは詳しいことは省くが、まったく編集の動きが止まり、この企画はいわば「お蔵入り」になってしまったのである。

 それから、さらに5年近くが過ぎた。この間、兄の大病もあった。私も高まった気分がしぼんだ。何事にもタイミングというのがある。

 しかし、なんとか本にしないかという周囲からの声に押され、いままた編集が再開された。村山新治は今年7月10日に満94歳の誕生日を迎える。誕生日祝いには間に合わないが、なんとか今年中に本にしようと、奮戦しているところだ。

 ここに一枚の写真*がある。キャプションには「映画兄弟 1962年(左から 二男英治、四男新治、六男和雄、五男祐治)」とある。撮影場所は父英治の鷺宮 の自宅の居間、恒例の新年会でのスナップだ。男六人兄弟(他に三人姉妹がいたが)のうち、長男と三男をのぞいて4人が映画屋なのである。英治(桜映画社社長)、新治(東映映画監督)、和雄(東映教育映画カメラマン)、祐治(新生映画社長)。教員をやめて芸術映画社に入った兄英治をたよって、みな映画の世界に入ったのだ。

 さらに言えば、この村山新治の本を編集している長兄の村山正実は、父がつくった桜映画社**で数多くの記録映画を手がけた監督である。本書製作の協力者のひとり、村山英世は私の次兄で元桜映画社の社長で、現在は記録映画保存センター***の事務局長。ちなみに桜映画社・現社長の村山憲太郎は英世の長男になる。

 本書はいわば、戦後の東宝争議をはさんで、空前の映画の隆盛を迎える映画制作の現場を活写した優れた記録の本であるばかりでなく、村山英治****からはじまる映画4兄弟、ある映画家族の、いわばサーガとなる家族を描いたものになるはずだ――そう私は思う。

 ただひとりそのサーガの環に外にいる私は、この本の誕生にどうしても力が入るわけなのである。

*『村山和雄さんを偲ぶ』(2001年12月刊、私家版)
**桜映画
*** 記録映画保存センター
****村山英治については前に書いたコラムがある: