(83)誤訳、改訳そして新訳、・・・また誤訳
[2020/8/8]

コラム(82)で紹介した、工藤幸雄さんの『ぼくの翻訳人生』(中公新書、2004年)。マレク・フラスコの『雲の中への第一歩』(角川書店、1959年)が、実は作家名の表記がマレク・フワスコであり、書名も『雲の中の第一歩』が正しかった、これは自分のミスだったと、翻訳者であるこの工藤さんが平然と告白されている。人名表記もさることながら、書名の変更は大問題だ。「への」から「の」になる。私の驚きとショックはわかっていただけただろうか。「雲の中」 へのほんとうに不安で足も震えるその第一歩、その入り口前でウロウロしていた、私の青春時代の心の様子を表現する大切な言葉だったのだ(笑)。
その工藤本の中で、もう一つ気になるフレーズがあった。「翻訳はひと世代、およそ30年間が賞味期限だ。」 工藤さんも自分のミスの言い訳に言っているわけでなく、実はこれは訳者や編集者が誰でもがたえず言っていることなのかもしれない。「古典を新訳で蘇らす。」 このキャッチコピーのもと、改訳・新訳が行なわれてきている。

先日、『朝日新聞』7月28日の「文化・文芸」欄に「新訳『老人と海』 脱・マッチョ」という記事があった。それによると、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェウィ(1899〜1961)の代表作『老人と海』 (“The Old Man and Sea”)が、実に54年ぶりに新訳され刊行されたというのだ。新潮文庫の『老人と海』は1966年に福田恒存訳で刊行され、以来実に122刷、累計499万部という、海外作品としては同文庫のトップの発行部数を誇ってきた。今回の新訳はヘミングウェイの翻訳を数多く手がけてきた翻訳者の高見浩さんによる。こだわったのは従来固定化されてきたマッチョなヘミングウェイ像からの解放だそうだ。編集の担当者は、「半世紀前の翻訳は、今よりも格段に情報量の少ないなかで行われた。どんな名訳であっても、時代が進むと、必然的に内容が古く感じられてしまう」という。
確かにそうだ。行ったことも見たこともない土地の風景や暮らし、食べたこともない、匂いも知らない食べ物などを、明治維新から先人たちは勇敢にも翻訳してきたのだ。
翻訳著作権の問題、活版やフィルムなどの古い印刷形態の問題から、新たな訳者による新訳が求められることもある。また紙の本だけでなく、電子翻訳本の誕生にも新訳が必要かもしれない。こうして各文庫の新訳の動きは、これまでさまざまなスタイルで行われてきた。
新潮社では、「Star Classics 名作新訳コレクション」が2014年から始まっている。高見浩訳の『老人と海』の新訳もこのシリーズの最新刊である。
新潮社では「村上柴田翻訳堂」という新訳、復刊シリーズもある。村上春樹・柴田元幸のコンビだ。
この新訳文庫ブームの先駆けとなったのは、2006年から始まった光文社古典新訳文庫である。光文社古典新訳文庫初代編集長は駒井稔さんという方。この駒井さんが書いた本について、「ほぼ日の学校」学校長・河野通知さんのとても興味深いコラムがある。
他に、集英社文庫ヘリテージシリーズ「ポケットマスターピースシリーズ」もあった。

新訳というと、私にとって、どうしてもふれないわけにはいかない本がある。J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(“The Catcher in the Rye”)である。原書は1951年にリトル・ブラウン社から出ている。私は高校2年生の時、野崎孝(1917〜1995)訳の『ライ麦畑でつかまえて』(1964年、白水社)を読んだ。まさに衝撃的な出会いとなった。白水社は野崎さんが亡くなった8年後、そして野崎訳本刊行38年後に、村上春樹訳で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(2003年)を出した。同じ版元から、いまはどちらも新書版でほぼ同じページ数、しかも同価格(本体800円)売っている。出版界ではほんとうに珍しいことだ。
40年の歳月がたてば、新訳のほうがいろいろな意味で読みやすくなっているはずに違いない。しかも訳者は作家の村上春樹だ。しかし、私は野崎孝訳のホールデンを愛する。じつは村上春樹訳本を私は1行も読んでいない、いや読めないのだ。
S先生のこと』(2013年、新宿書房。第61回日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、『ホールデンの肖像——ペーパーバックからみるアメリカの読書文化』(2014年、新宿書房)の著者の尾崎俊介さんには人気ブログ「教授のおすすめ!セレクトショップ」がある。このブログの2018年12月20日付けの「野崎訳vs村上訳 さて軍配はどちらに?!」がとてもおもしろい。
どうぞ、ご覧ください。急ぐ方に、そっと尾崎教授の軍配がどうだったか、お教えしよう。
野崎訳の圧勝だね。」教授はさらに言う。
「だけど、私から見ると、もうその差は歴然と言っていいくらい、野崎訳の方が『ライ麦畑』を日本語で再現していると思います。村上訳はね、あれはサリンジャーの小説じゃなくて、サリンジャーの小説の真似をした村上さんの小説みたいにしか見えない。村上節炸裂って感じだもの。それが気になって、気になって、もう読んでられない。」

さて、『ホールデンの肖像』の中の「ホールデンの肖像——表紙絵に描かれた『ライ麦畑でつかまえて』」と「追悼 J・D・サリンジャー」をぜひ読んでいただきたい。尾崎教授はおもしろいことを言う。
サリンジャーというのはいわば文学的な〈麻疹(はしか)〉であって、罹(かか)ると一時期大変なことになるのだが、その時期が過ぎると、ある瞬間にケロッと治る。
となると、私のサリンジャー(野崎孝訳)麻疹は、まだ治っていないことになる。

参考サイト:
サリンジャー生誕100年 三人閑談 三田評論ONLINE
ここで尾崎俊介氏は次のようにいう。
野崎さんが偉いと思うのは、この後20年以上してから新訳版を1984年に出したことです。これが今も読める版ですが、旧版とは訳が全然違う。もう何千カ所というぐらい、言葉の一つ一つを、細かく変えています。
野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』は1964年に白水社の「新しい世界の文学」というシリーズの1冊として出版された。同書は20年後に同社の「白水Uブックス」(新書版、340ページ)に装いをあらたにして出版された。つまり野崎訳の大改訂新版ということになる。