(62)大木茂写真集『汽罐車 よみがえる鉄路の記憶1963-72』のこと
[2020/3/13]

2011年3月11日。東日本大震災があり、東京電力福島第一原発事故が起こる。これから今日まで、9年の時間が過ぎた。2020年2月現在、依然として約4万8000人が避難している。福一原発の廃炉作業も遅々として進んでいない。
2011年3月11日は私たちにとっても忘れられない日だ。九段下の事務所の書棚の本は崩れ落ち、足の踏み場もない状態になった。その中には、3月3日に発売したばかりの新刊の大木茂さんの写真集『汽罐車(きかんしゃ) よみがえる鉄路の記憶1963-72』もあった。(以下『汽罐車』と略)


本文扉=北海道・宗谷本線ー稚内機関区 9600 1970年3月

写真家の大木さんとは1970年代の半ばからの知りあいであり、新宿書房では89年3月に『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(文=井上章一、写真=大木茂、造本=鈴木一誌+大竹左紀斗)という金次郎像の生涯をさぐったモダンイコノロジーを出している。

それ以後も大木茂・晴子さんご夫妻には春のお宅での花見などにいつも呼んでいただいたりして、仕事抜きのお付き合いは続いていた。

大木さんのこの写真集の話は、ある日突然やって来た。写真集『汽罐車』の誕生には、私の友人である星川浩(ほしかわ・ひろし)がキーパーソンとして登場する。

星川とは大学時代の友人だったが、卒業後(彼は中退)20年近く音信不通となっていた。ある日、四谷にある大学の中庭でばったり会った。内ゲバの時代を掻い潜って生きていたのだ。今は映像関係の仕事をしているという。次に会ったとき、彼は「エベンノ」という名前の編集事務所をもち、新しいパートナーと雑誌や書籍の編集校正の仕事をしているという。事務所名の由来は「呑んべえ」を逆に読んだものだという。それからの星川たちの生活を一変させたのは、実はこの私なのだ。

1994年の12月から、我が家では犬との生活を始めていた。ある人の紹介で、市川市の本八幡のブリーダーから、ラブラドール・リトリバーの男の子を分けてもらった。早速、新宿西落合のアパートから、犬のために借家を探して、保谷(ほうや)に引っ越す。ボロボロの家だが、敷地は90坪もあり、庭には大きな栗の木が2本もある。まわりには大きなケヤキのある農家や雑木林が散在していた。家の西側は広いキャベツ畑だった。

前から好きだった、田村隆一(1923〜98)の詩、「保谷」の世界に移り住んで来たんだと、ひとり悦に入っていた。ここから、バスで三鷹駅に出て、そこから総武線で市ヶ谷の事務所に通勤した。

保谷       田村隆一

保谷はいま
秋のなかにある ぼくはいま
悲惨のなかにある
この心の悲惨には
ふかいわけがある 根づよいいわれがある

灼熱の夏がやっとおわって
秋風が武蔵野の果てから果てへ吹きぬけてゆく
黒い武蔵野 沈黙の武蔵野の一点に
ぼくのちいさな家がある
そのちいさな家のなかに
ぼくのちいさな部屋がある
ちいさな部屋にちいさな灯をともして
ぼくは悲惨をめざして労働するのだ
根深い心の悲惨が大地に根をおろし
淋しい裏庭の
あのケヤキの巨木に育つまで

近くの東伏見には私の大好きな詩人の茨木のり子(1926〜2006)が住んでいて、詩集『倚(よ)りかからず』(筑摩書房、1999)を出したのも、この時期だった。

ラブラドールには「ザックZACK」と名付けた。毎週末に小金井公園で行われていた訓練士(ドッグトレーナー)の教室に通ったり、その訓練士の所属するJKC(ジャパンケンネルクラブ)という団体が主催する競技会に、今月は荒川の河川敷、来月は川越の河原へと熱心に参加するなど、生活のすべてはザックを中心にまわっていた。そんな私達の暮らしをみて、星川もにわかに犬との暮らしに興味を持ち始めて来た。

私は保谷の近所にいたドッグトレーナーを紹介し、星川はオーストラリアで生まれたボーダーコリーの男の子を手に入れる。大阪生まれの熱狂的な阪神タイガース・ファンの彼は、「ランディー・バース」(愛称ランディー)と名付ける。彼らの犬との生活は徹底していた。フリーで仕事をしていたことで、時間はたっぷりあったのだろう。当時流行り出していた、アジリティーの競技会のために、関東周辺はおろか、遠く名古屋近くまで車で遠征していた。そして住まいも練馬から、保谷にも近い緑豊かな清瀬に引っ越した。かれらも武蔵野に来たのだ。

後に星川の犬仲間になったHさんが大木さんの大学時代からの友人のひとりだった。このHさんが中心となって大木写真集の企画を立ち上げる。このあたりのことは大木さんのサイトにゆずろう。

鉄道写真集刊行委員会(本部は清瀬の星川宅)の、企画・編集会議は2010年の夏から始まった。そこから秋まで編集、年内に校正校了、2011年1月に印刷、2月に製本と進み、書店配本は3月3日だった。

煙、スチーム、汽笛。
桜の鹿児島、流氷の網走・・・・
蒸気を追った青春の残照
最新のデジタル技術で
今よみがえる「昭和の原風景」。
「蒸気機関車(蒸気)とその時代」の
眩い魅力が濃厚に詰まった
珠玉の写真集!
蒸気機関車(汽罐車)とは、
使い捨て物質文明に潰されてしまった
人々の優しい心根へのオマージュである。

これらの文章は、写真集の帯やチラシから抜きだしたものである。いま読むとやや気恥ずかしいところもあるが、「汽罐車」への熱い思いが溢れている。

映画のスチールの仕事をしている大木さんは旧知の俳優の香川照之に文を書いてもらう。香川は「あなたは感じるか?感じるだろう。」というエッセイを寄せ、「この写真、匂うか、匂うだろう。」と叫ぶ。

大木さんは高校1年生の1963年から蒸気機関車の写真を撮り始め、大学を卒業する72年までに撮影した2万7000カットの写真から選んで構成したものである。日本列島、北から南へ31の路線を走る蒸気機関車(汽罐車)が登場する。

写真集『汽罐車』は〈幸運〉にも、大震災の直前に完成した。東北の製紙工場や板橋にあった洋紙倉庫の被災で、出版洋紙不足となり、われわれのような小出版の少部数の印刷はしばらくままならない状熊が続いた。

写真集の完成後、出版祝いや販売会議の呑み会を始めたのは、震災から数ヶ月たった連休あけだったか。星川がこの頃から、体調不良を訴え始めた。秋になっても回復しないまま、清瀬にある国立の医療センターに入院する。重度の内臓の癌が進行しており、余命を宣告され、手術もできないという。幸いなことに、大木さんの鉄道仲間のひとりにガン研有明病院に勤務するM医師がいて、彼の紹介で年末にそこに転院した。2012年1月に手術に成功し、幸運にも春には退院することができた。その後、通院しながら、新しく加わっていたウーピーとリーベ、そしてランディーの3匹のボーダー・コリーとの生活、そして仕事もこなすことができた。新宿書房の仕事もいろいろやってくれた。ランディーは14歳3ケ月も生きた。そして星川は闘病7年、2018年2月に亡くなった。

2月の末に大木茂さんが九段下にやって来た。ひとつは三回忌となる星川浩への献盃のため。星川の遺骨は東京湾に散骨され、お墓もない。もうひとつは、大木さん曰く「自分は葬式もしないから、生前葬としてまた写真集を出したい」。実は大木さん、昨年の8月25日から11月10までの77泊78日!の鉄道旅(ロシアのソビエツカ・ガバニ〜リスボン・カスカイス:2 4000キロ)を敢行したのだ。書いた原稿は文字数27万字、撮った写真は2 300カットもあるという。題して『72歳、老写真家ひとり ユーラシア鉄道横断記』(もちろん、私が付けた仮題)。まず、原稿をともかくスリムにしてみたらということになる。わたしもあわてて、下記の本を近くの図書館で借りてきた。

『鉄道シルクロード紀行』(週刊朝日MOOK、2010)、芦原伸『シルクロード鉄道見聞録』(講談社、2010)、下川裕治『世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ』(新潮文庫、2011)、草町義和監修『全国未成線ガイド』(宝島社、2016、草町「現代版中央アジア横断鉄道乗り継ぎプラン」)。

東日本大震災、東京電力福島第一原発事故以来、常磐線は富岡〜浪江間(富岡、夜ノ森、大野、双葉、浪江の駅がある)が最後まで不通だったが、3月14日には運転再開される。9年ぶりの常磐線全線運転再開だ。
今あらためて写真集『汽罐車』の最後の見開き写真を見てみる。
大木さん、東日本大震災、東京電力福島第一原発事故を予見していたのだろうか。


見開き写真=福島県・常磐線―木戸(双葉郡楢葉町)C62特急「ゆうづる」1966年3月