(23)サーカス博閉幕、上野英信展開幕
[2019/5/31]

サーカス博閉幕

4月22日から始まった「サーカス博覧会」(原爆の図 丸木美術館)が5月26日で閉幕した。今回のサーカス博は画家・後藤秀聖さんの大奮闘により開催出来たことを、まずここに特筆大書しないといけない。期間中の関連イベント、4月21日の石丸謙二郎さんの講演、5月18日の上島敏昭さんの大道芸と都築響一さんのギャラリートークも好評裡に終わった。
サーカス・見世物小屋の資料と《原爆の図》の組み合わせ。これはどう受け取られたのだろうか。私の友人(男)は先日、このようなメールを寄こした。

「前から行きたい、行きたいと思っていた場所。遠いこともあり、なかかなかチャンスがなかったんです。ようやく、このサーカス博覧会のお陰で丸木美術館を訪れることが出来ました。チラシを見てサーカスの音楽に引かれるように東松山まで行きました。喧騒の中のサーカスの天幕や見世物小屋。そんな遠い記憶の中にあった絵看板が、色あせて、静寂の中、まるで荘厳な宗教画のように堂々と屹立している。さまざまな絵看板が天井近くの高さから展示されている。しかし、耳を澄ますと、それぞれの絵看板は小さく低い音だが、間違いなくお互いに声を交わしている。その声と声を聞きながら、2階に上がってみる。なんとそこにはあの《原爆の図》のシリーズが展示されているではありませんか。さらに1階のサーカス博の手前の部屋にも《焼津》などの作品も展示されていたのだ。上からそして横からこれらの《原爆の図》の放す強い磁場に囲まれた空間に、あのサーカスの絵看板があったのです。もう一度サーカス博の部屋に戻りました。ふたつがほんとうに不思議に融合しています。《原爆の図》はこれを見たものが語り出す絵、さまざまな物語に抱かれた絵、と言われている。サーカスの絵看板が放す低い声は、《原爆の図》に向かって話している声に違いない。丸木夫妻が描いた絵を見ながらトボトボと歩く民衆。彼らが話し声と足音を残して、サーカスの天幕の中に消えていく。まさに喧騒と静寂が交差する空間を創り出しています。《原爆の図》が戦後占領下の日本で全国巡回し100万人を超える人びとが観たという話は、サーカスの巡業の世界と近いなと思いました。」

これを読んで、私はこの企画展は成功したなと思った。なお、サーカス博覧会実行委員会は、会期終了後に小さな図録の製作に着手するという。


最終日のサーカス博覧会

上野英信展上野英信の坑口―筑豊、南米、沖縄…人々のいのちの火を掘り起こした記録文学作家」(5月22日~6月9日)

5月24日のトークイベントに参加した。鎌田慧(1936~ ルポライター)、上野朱(1956~ 上野英信の子息で古書店主)、本橋成一(1940~ 写真家・映画監督)の3人のトークだ。上野英信が1963年2月、福岡県鞍手(くらて)郡鞍手町の廃屋となった元炭鉱住宅の長屋と共同便所を買い取り、ここに筑豊文庫を開設、8月に「筑豊文庫」の看板も掲げる。 著名な作家・文化人だけでなく、労働者、学生運動の活動家、駆け出しのルポライターや写真家など老若男女を問わない人々が、筑豊への関心だけでなく、さまざまな人生の悩み事をもってこの筑豊文庫を訪れた。筑豊文庫はある意味で公民館であり、図書館であり、労働者の文化センターであった。筑豊文庫は上野が1987年に64歳で亡くなったあと、朱(あかし)さんの手で解体された。ここを訪れた人の数はのべ3万人と言われる。


ポレポレ坐の会場にて:両わきにあるのは採炭夫が使ったツルハシ

鎌田さんが筑豊文庫を最初に訪れたのは30歳ごろ。長逗留の間には、東映映画の『花と龍』(65)のロケがあり、地域の住民と一緒にエキストラとして参加したという。本橋さんが最初に訪れたのは22歳ごろ。実家が書店だったため、当時ベストセラーとなり、店にうずたかく積まれた土門拳の写真集『筑豊のこどもたち』に強く影響されたからだ。朱さんは当時小学生だった。来客の多い筑豊文庫で、台所の隅にいつもほっておかれていたので、鎌田慧さんは彼を〈戦災孤児〉と命名した。
この筑豊文庫から多くの作家、ルポライター、写真家が育った。岩波新書の『南ヴェトナム戦争従軍記』(1965)を書いた岡村昭彦はここ筑豊文庫に4ヶ月も滞在して、新書の原稿を書いた。しかもその担当編集者はまたしても田村義也だ。
実はこの筑豊文庫のことも上野英信の人生についても、当日ポレポレ坐で売っていた福岡市文学館企画展(2017年11月10日~12月10日)の図録『上野英信 闇の声をきざむ』から多くのことを学んだ。実によく出来ていて、判型は縦横200ミリの変型、132頁と小粒ながら、力の入った大労作だ。今回の東京での展示はこの福岡市文学館企画展「上野英信 闇の声をきざむ」をほぼ継承したものだという。同展の企画は田代ゆき(福岡市文学館)、図録製作には、田代、井上洋子、坂口博、前田年昭がたずさわっている。図録からは、この4人が放つ、まるで抗口から吹き出す蒸気のような熱気がほとばしる。以下、図録の目次・構成を紹介しよう。


ポレポレ坐の会場にて

はじめに
第1章 下放する
生涯を貫く下放のはじまり/『労働藝術』『地下戦線』/『せんぷりせんじが笑った!』『ひとくわぼり』/サークル運動 二人の坑夫の遺稿集/初期物語群/蝶のゆくえ 上野朱
第2章 記録文学者の誕生
記録者の覚悟―絵ばなしから記録文学へ/『追われゆく坑夫たち』/『地の底の笑い話』/『サークル村』と、上野英信森崎和江、石牟礼道子の〈闘争〉
第3章 地底からの通信
『日本陥没期』/『どきゅめんと筑豊』『骨を囓む』『火を掘る日日』/『天皇陛下萬歳―爆弾三勇士序説』/『近代民衆の記録2 鉱夫』
第4章 追われゆく坑夫と共に
『廃鉱譜』/筑豊文庫/「筑豊文庫」を支え続け受け継ぐ人々/『出ニッポン記』茶園梨加/『眉屋私記』松下博文/ 上野英信と沖縄 三木健
第5章 弔旗をかかげて
『写真万葉録・筑豊』/岡友幸さんに聞く/民衆の怨念の化身として 川原一之/「筑豊よ」、逝去、追悼。/晴子さんのこと 樋脇由利子
作品
年譜
作品一覧
編著書一覧〔別冊〕

この図録が同じ福岡市文学館が2011年に出した図録『サークル誌の時代 労働者の文学運動 1950-60年代福岡』(田代ゆき企画)から連綿と続いてきた作業であることがわかる。


図録『上野英信展』第2章より

3人のゲストのお話で、筑豊文庫のある日の生活が生き生きとよみがえるようだ。とくに上野朱さんは語り部として、なかなかの腕をもつ。その中で、気になるエピソードがあった。石牟礼道子(1927〜2019)の『苦海浄土』の出版までの経緯だ。上野英信がふたりの作家を世に送り出すのに奔走した話はよく知られている。ひとつは、炭鉱絵師・山本作兵衛の『画文集 炭鉱に生きる—地の底の人生記録』(1967、講談社)だ。もうひとつは、いまや〈いのちの文学〉と称揚され、〈不朽の名作〉とまでいわれる、石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』(1969、講談社)だ。上野は『苦海浄土』という題名まで考えた。
この『苦海浄土』の出版を岩波書店が断ったというのだ。前掲の『上野英信 闇の声を刻む』の年譜(1969)には、上野自身の文が引用されている。
「三一書房にも容れられず、岩波書店に持ちこむ時、評論家の谷川健一さんはわたしをこう慰めた。〈石牟礼さんの文体を岩波の体質が受け容れてくれればよいが……〉と。案のじょう、六ヵ月たっても岩波側の承諾はえられなかった。〔略〕やむを得ず、わたしは、またしても原稿を担いで講談社に持ちこみ、やっと単行本にしてもらうことになった。(「担ぎ屋の弁」)」
前にも書いたように、上野英信は編集者・田村義也を得て、岩波新書『追われゆく坑夫たち』(1960)で大ヒットをはなち、つづく『地の底の笑い話』(1967)もまたもや好評と、岩波とは悪い関係ではないはずだ。なぜ岩波書店(田村義也)は『苦海浄土』の出版を断ったのだろう。先日、岩波関係者に聞いてもらったが、わからないと言う。当時の関係者ももうみな生きていないのだ。では、この一件があって、上野―岩波(田村)の関係は壊れて最悪の状態になったのか?

業余装丁家、日曜装丁家で活躍しはじめた田村義也は1967年6月、新書編集部から雑誌『世界』の編集部に異動、3年後の70年7月には同誌の編集長になる。しかし、この期間、日曜装丁家として、月1冊は装丁の仕事をこなしている。また、上野、石牟礼に限ってみると、田村装丁本は次のものがある。これらをみても、上野・石牟礼―田村の関係は壊れていない。

上野英信 『天皇陛下萬歳―爆弾三勇士』筑摩書房、1971
     『骨を囓む』大和書房、1973
     『出ニッポン記』潮出版社、1977
     『火を掘る日日』大和書房、1979
     『眉屋私記』潮出版社、1984
石牟礼道子『西南役伝説』朝日新聞社、1980
     『樹の中の鬼(対談集)』朝日新聞社、1983
     『おえん遊行』筑摩書房、1984
     『花をたてまつる』葦書房、1990
『苦海浄土』の刊行は69年1月であるので、原稿売り込みは1967〜68年か。石牟礼にはやはり、田村へのクールダウンの時間が必要だったのかもしれない。ちなみに田村義也が完全に岩波書店を辞めるのは1985年3月末、62歳の時で、以後フルタイムの編集装丁家となる。


田村義也装丁の石牟礼道子の本

さてどなたか、「なぜ、岩波書店(田村義也)が『苦海浄土』を断ったか」を、ご存知ないだろうか。
そして田村さんご本人にも聞いてみたい。「大魚を逃しましたね?」

注=本文ではふれていない参考文献(順不同)
『闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s-2010s』福岡アジア美術館、2018
『谷川雁 永久工作者の言霊』松本輝夫、平凡社新書、2014
『闇こそ砦 上野英信の軌跡』川原一之、大月書店、2008
『背文字が呼んでいる—編集装丁家田村義也の仕事』武蔵野美術大学美術資料館、2008
『田村義也—編集現場の115人の回想』田村義也追悼集刊行会(新宿書房内)、2003