(2)『ハンナ・アーレント』余聞
[2014/1/10]

 雑誌『ニューヨーカー』といえば、常盤新平さん(1931-2013)の名前を出さないわけにはいかない。常盤さんは同誌に掲載されたアーウィン・ショウなどの短編小説を熱心に日本の読者の紹介してきた人だ。この「クラス・リテラリー・マガジン」(高級文芸誌)で「ラディカル・シック」の同誌をこよなく愛した人だ。以下の2冊の常盤さんの本をあらためて読んでみた。

『ニューヨーカー物語―ロスとショーンの愉快な仲間たち』(ブレンダン・ギル著、常盤新平訳、新潮社、1985)。
『ニューヨーカー・ストーリイズ』(常盤新平編・訳、新書館、1975)。

 ブレンダン・ギルの『ニューヨーカー物語』は『ニューヨーカー』創刊50周年にあたる1975年にランダムハウス社から出版され、全米ベストセラニューヨーカーーになった本である。邦訳刊行までになんと10年の歳月をかけている。原題は『この「ニューヨーカー」では』(Here at the New Yorker)。同書の巻末にある常盤さんの「補足と蛇足 訳者あとがき」から拾い読みしてみよう。

 『ニューヨーク・タイムズ』の書評誌(The New York Times Book Reviewsのこと)の当時の編集長だった、ジョン・レナードは、2代目編集長のウィリアム・ショーンの『ニューヨーカー』を創業者で初代編集長のハロルド・ロスの『ニューヨーカー』よりはるかに高く評価していた。レナードによれば、ショーンによって『ニューヨーカー』は「ユーモア雑誌」から「ユーモアもある雑誌」に変貌したそうだ。またレナードは次のように言う。ショーンは「不況やファシズムなど存在しないかのように1930年代を夢心地で歩んでいた知識人気取りの、一地域の雑誌から、私たちの前で気取ることなく、私たちを変える雑誌(ジャーナル)にした 。そしてショーンは『ニューヨーカー』の枠から外れているともいえる、強力なノンフィクションを一再ならず連載してきた。

 日本敗戦の翌年5月、ジョン・ハーシーを広島に送り、広島で何があったかを探らせた。ハーシーは1ヶ月、日本に滞在し、占領軍からほとんど協力を得ることもなく、取材してまわっている。「一個の原子爆弾による一つの都市のほぼ完全な消滅と、その都市の人たちに何があったかを伝えたい。それは、この兵器の恐るべき破壊力を理解する人が私たちのなかにまだほとんどいないし、誰もがその兵器の使用の恐ろしい意味を時間をかけて考えるべきだとの確信に基づいている」という巻頭言に始まる『ニューヨーカー』1946年8月31日号。この巻頭言は無署名ではあるが、これを書いたのはウィリアム・ショーンである。同号は広告をのぞいて、全ページをあげてのハーシーの3万語の『ヒロシマ』を掲載した。

 そして、ショーンは前に述べたように次々とノンフィクションの力作を連載していく(以下、書名は邦訳名から)。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(原題はSilent Spring。邦訳名は当初、『生と死の妙薬』だったが、後に『沈黙の春』となった)、ジェームズ・ボールドウィンの『次は火だ』、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』、アンソニー・ルイスの『アメリカ司法の英知―ギデオン事件の系譜』、トルーマン・カポーティの『冷血』、ノーマン・ルイスの『マフィアの誕生―掟と復讐』、マイケル・ハリントンの『もう一つのアメリカ―合衆国の貧困』、チャールズ・ライクの『緑色革命』、そしてジョナサン・シェルの『地球の運命』と枚挙にいとまがない。

 ベトナム戦争では『ニューヨーカー』はさまざまなジャーナリストを派遣して、「世界一強い国が世界で最も弱い国を苛める戦争」を取材させた。ジョナサン・シェルもその一人であった。

 この映画『ハンナ・アーレント』に出てくるジョナサン・シェルはショーンがもっとも信頼を寄せていたジャーナリストで、ショーンが75歳の時、つまり『ニューヨーカー』が創刊58周年を迎えた1983年のとき、一時は意中の後継者であるという噂が流れた。しかし、シェルは『ニューヨーカー』のスタッフからは敬遠されおり、この後継者問題は白紙に戻った。

 『ニューヨーカー・ストーリイズ』は、1971年に月刊ペン社から刊行された『ニューヨーカー作品集』の再刊である。作品は常盤さん好みの作家の短編小説が選ばれている。編集担当は白石征。敏腕の寺山修司編集者であり、今は新書館を離れ、遊行舎を創設し、藤沢・遊行かぶきの公演を主催している。『ニューヨーカー・ストーリイズ』のなかの「ニューヨーカー物語」(常盤新平)を読んでみる。『イェルサレムのアイヒマン』のことについて、次のように書いている。

 「哲学者であり、『全体主義の起源』の著者であるハンナ・アーレントはイェルサレムで行われるアイヒマン裁判を書こうとして、まずその話を『コメンタリー』誌に持ちかけた。」

 この『コメンタリー』誌とは、ユダヤ人コミュニティーの月刊誌で、後のネオコンの思想家となったノーマン・ポドレツが、同誌の編集長を1960年から95年まで勤めていた。

 「同誌はしかしアーレントの申し出を断った。彼女をイェルサレムに派遣するだけの経済的な余裕がないというのだ。」

 ちょうどこの時の『コメンタリー』誌の編集長がノーマン・ポドレツということになる。ここで、ハンナの親友が登場し、彼女に手を差し伸べる。 「そのとき、アーレントの友人であり、『ニューヨーカー』の執筆者でもあった、『グループ』の作者、メアリー・マッカーシーがショーンに電話をかけてくれた。結局、編集人のショーンは、アーレントのこの取材の経費をいっさい負担することを承知した。」

 この常盤さんの文章から、『イェルサレムのアイヒマン』のもう一つの誕生譚がわかった。この映画に登場するウィリアム・ショーンのこと、ジョナサン・シェルとメアリー・マッカーシーのポジションもさらによく見えてきた。またハンナ・アーレントのこの連載が、なぜアメリカのユダヤ人コミュニティーから大反発を受けたのか、その背景も理解できる。