(25)上野英信展余聞:谷川雁の影
[2019/6/14]

東京・東中野のポレポレ坐での上野英信展は終わった。「筑豊文庫」に焦点をあてた記録文学者・上野英信の人生をたどる展示だったが、ある人の不在を感じざるをえなかった。谷川雁のことである。
上野と谷川の出会いは1958年1月の九大近くの学生下宿だという。そこで、二人は雑誌の刊行についての下絵を描いた。「まるで薩長連合ですな」と二人は笑いあったという。

谷川雁は1923年熊本県水俣市生れ。45年、千葉県印旛郡の陸軍野戦重砲隊に入隊。敗戦後復員、東大文学部社会学科(指導教官は日高六郎)を繰り上げ卒業。福岡市の西日本新聞社に入社し、九州での生活を再開している。この間に日本共産党に入党、47年新聞社の労組書記長として労働争議を指導して解雇処分。48年、丸山豊創刊の同人詩誌『母音』に参加。49年、日本共産党九州地方委員会の機関紙部長となる。翌50年から結核で帰郷、療養生活に入る。

一方、上野英信は1923年山口県井岡村(現阿知須町)生れ。満洲の長春にあった建国大学に在学中の43年12月に学徒招集され、45年8月6日に広島市宇品の兵舎で被爆。46年に京大文学部支那文学科に編入、47年同大を中退。九州に渡り、48年1月福岡県遠賀郡岡垣町の海老津炭鉱を振り出しに中小炭鉱で坑夫として働きつつ、炭鉱労働者の文学運動を組織し、『地下戦線』などを発行する。53年、日本共産党に入党。

ふたりの出会いは1958年だが、それまでの10年間、九州にいるお互いの存在を意識してきたにちがいない。そこから、同年9月の雑誌『サークル村』の創刊までの時間は早い。
すでに1年前から遠賀郡中間町本町(現中間市)に住んでいた上野英信宅の隣に、谷川雁と森崎和江が移ってきた。もともと一軒家だったと思われる平屋の家の前半分に上野家が、後半分に谷川・森崎家が分れ住んだ。上野一家(英信と晴子夫妻の間には3歳の息子の朱がいた)と壁一重ごしの隣人生活が始まったのだ。詩誌『母音』の同人で知り合った谷川、森崎にはともに家族があった。それぞれ妻(夫)の元を離れ、別の男(女)と行動をともにするため家を出てきたのだ。しかも谷川は子供ひとり(長女のあけみ。長男の空也は1950年に2歳10ヶ月で死亡している)を連れ、森崎も4歳の長女・恵の手を引き、1歳半の長男・泉を背負って、上野家の隣りにやってきた。

その日のことを、後年、上野晴子は次のように回想している。
「玄関ともいえない狭い入り口の、土間と台所のしきりに掛けた短いのれんを片手ではねて、雁さんの顔がぬっと入ってきた。そして一瞬のうちに私と家の中のすべては見られてしまった。にこりともしない切れ長の鋭い目と高い鼻、一文字にひきむすばれた口元、黒々と光る豊かな髪、ちょっととりつきにくい雰囲気の雁氏の傍らで、小柄な和江さんの美しさは透き通るばかりだった。」
谷川は筑豊といえばもっと奥の田川をあたりに事務局を置くことに関心があったが、上野の熱心な説得でようやくここに来たという。森崎は三日とあけずに子どもたちのことを父親(夫)に書き送り、往来もしたという。谷川は「今日からぼくもパパだ」といい、子どもたちは「パパもママも二人ずついる」といった。
雁、英信ともに35歳の初夏だ。

同じ屋根の下、二世帯、大人4人、子ども4人のてんやわんやの暮らしの中、夜昼なく入れかわり立ち替わり若い人が集い、熱気にあふれていた。敗戦記念日の8月15日には、ここを「九州サークル研究会事務局」とした。それから9月20日の文化運動誌『サークル村』の創刊までのすさまじい日々が続く。A5判、平均60頁、活版印刷。創刊部数は800部、製作費はおよそ3万円だったといわれている。
編集委員は上野、谷川、森崎らの9人、参加した会員は九州・山口の数十のサークルに所属する200余名の個人だった。会員の中には河野信子、中村きい子、石牟礼道子、杉原茂雄(後の大正行動隊隊長)、谷川和子(雁の妻、水俣市在住)などの名前が見える。
小説、詩、評論、短歌、ルポルタージュ、合唱用詞曲、映画評、生活記録などさまざまなジャンルが掲載された。
『サークル村』は月刊誌で、第1期21号までは活版、第2期1号から10号はガリ版だ。創刊が1958年9月、休刊は1961年10月、1年9カ月で終わった。自壊の原因は「二人の事務局員の発狂と失踪」(谷川)と言われたが、一番の原因は事務一切を担当していた上野英信が健康悪化を理由に1958年1月から福岡市の山の中、茶園谷の小さな隠れ家に移転したことがあげられる。しかし、上野は編集委員会のたびにそこから通ったという。
上野晴子は先の本で、あの喧騒の中で雁も英信もよく原稿が書けたなと回想する。
「雁さんの字はほれぼれするほど綺麗だった。原稿を書き上げるや否や雁さんは和江さんを呼び立てて、和江さんが入浴中なら風呂場の前で、炊事中なら鍋の前で、弁慶の勧進帳よろしく読み上げられるのだった。私たち夫婦が、味噌汁がぬるいとか漬物がまずいとかつまらぬことで口争いをしている最中に、一方では思想や芸術が論じられている。詩人夫婦の間には俗を離れた高尚な空気が流れていた。」
雑誌『サークル村』を始めた上野と谷川の性格はもともと水と油のように違っていた。『サークル村』が出るたびに、谷川が東京(知識人)に持っていくが、上野はこれには反対だった。上野は労働者の世界に直接入る、谷川は文字を書いて、それを東京に運ぶ。結局、『サークル村』は労働者の目に触れられずに終わった。
セキやくしゃみ、そしてイビキまでがすべて筒抜けの生活。谷川は言葉、言葉。上野は沈黙、沈黙。同じ屋根の下の生活の中で、『サークル村』はつくられた。

この『サークル村』の2年間(1958〜61)に、谷川も上野も以下のような本を出版している。また二人ともこの間の1960年に共産党を脱党、除名されている。

谷川雁
『原点が存在する』(弘文堂、1958年11月)
『工作者宣言』(中央公論社、1959年10月)
『谷川雁詩集』(国文社、1960年1月)
『戦闘への招待』(現代思潮社、1961年4月)
雑誌『試行』(吉本隆明、村上一郎と創刊、1961年9月)に参加

上野英信
『親と子の夜』(未来社、1959年11月)
『追われゆく坑夫たち』(岩波書店・岩波新書、1960年8月)
『日本陥没期』(未来社、1961年10月)

『親と子の夜』『日本陥没期』、ともに担当編集者は松本昌次だ。『親と子の夜』の刊行について松本は、『上野英信集』(戦後文学エッセイ選12、影書房、2006年2月)の月報で、次のように書いている。
「もともと、上野さんの『親と子の夜』の企画を未来社に持って来たのは谷川雁さんである。(中略)ある日、〈上野英信のこの本を出版しないような出版社は出版社じゃない、お前も編集者ならこの本を出してみろ〉と、言葉は正確でないが、谷川さん一流の言い方でなかば脅迫的にすすめられたこの本が、『親と子の夜』であった。」
また、谷川雁は兄の健一が平凡社で『日本残酷物語』(全7巻、1959年〜61年)の編集長をしていたので、『サークル村』から、自分と森崎和江、中村きい子、石牟礼道子らを売り込んで、原稿を書かせている。このあたり、プロデューサー(工作者)・雁の面目躍如たるものがある。

『サークル村』が終わった後、谷川と上野はそれぞれ分かれてちがう道を歩む。彼らはその後、二度と会うこともなかったという。谷川は大正行動隊を組織、1964年に大正鉱業が閉山すると、翌65年9月上京、筑豊を離れる。
上野は1964年、鞍手町の炭住廃屋を改造して移り住み。8月に「筑豊文庫」の看板を掲げた。筑豊文庫は公民館であり図書館となって、さまざま人たちがこの「巨大な泣き小屋」を訪れた。
森崎和江は、『サークル村』と並行して1959年8月に、女性交流誌『無名通信』を創刊(~61年7月)。そして初めての単行本『まっくら―女坑夫からの聞き書き』(理論社、1961年1月)を出版している。谷川雁とは1964年12月まで同居を続けた。

谷川雁は後年、『サークル村』の誌名について語る。「……種をあかせば『動物村』のもじりなのである」と。
この『動物村』とは、ジョージ・オーエルの“Animal Farm”(邦訳名『動物農場』、原書は1945年に刊行)をさすのであろう。飲んだくれの農場主を追い出し、動物たちは理想の共和国を目指すが、指導者の豚が独裁者となって、恐怖政治を敷く。『動物農場』の邦訳は1949年、57年とすでに出版されている。あるいは谷川は原書を手に入れていたかもしれない。
『サークル村』で自ら演じ、支配した「恐怖政治」をとうに自覚していたのであろうか。

参考文献
『サークル村の磁場――上野英信・谷川雁・森崎和江』(新木安利著、海鳥社、2011年)
『谷川雁――永久工作者の言霊』(松本輝夫著、平凡社・平凡社新書、2014年)
『キジバトの記(新装版)』(上野晴子著、海鳥社、2012年)


谷川雁(左)と上野英信(1958年秋ごろ)

実は私は谷川雁さんに一度会っている。
谷川さんが1980年ラボを退社し、翌年、市ヶ谷駅近くで「十代の会」を始めたばかりのことだ。私は平凡社を辞め、新宿書房を引き継いだ頃だ。友人の紹介で、この伝説の人に、こわごわ会った。
「では上野駅までタクシーの中で話そう」ということになる。
雁さんはすでに長野県の黒姫山麓に移住していた。上野駅に着くと、帰りの急行まで時間があり、近くの飲み屋に入った。
ずっと谷川さんが一方的に話すのを聞くばかりだったが、そのうち「なんでお前のとこは、市川房枝などの本を出すのだ!」と怒り出して、それから大演説になった。
私は翌日、「発狂と失踪」こそしなかったが、この言葉には後々まで、ずいぶんこたえたものだ。

翌年かに矢川澄子さんのエッセイ集『風通しよいように…』(1983年、編集=室野井洋子)を出した折、黒姫の矢川邸に泊まらせていただいた。矢川さんは80年の秋に黒姫に転居していた。その夜、たまにやってくる「裏のオジさん 」(谷川さんのことを矢川さんはそう呼んでいた)がいつ現れるかと、おそれおののいていたことを思い出す。