映画『ハンナ・アーレント』:2013年11月14日(岩波ホール)。
この映画で、編集者としてまず興味をいだくのは、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判のリポートを掲載した高級週刊誌『ザ・ニューヨーカー』(以下、『ニューヨーカー』と略)、その編集長、編集部員、それとかれらの立ち振る舞いだろう。
ハンナの『ニューヨーカー』への売り込みから始まり(映画では手紙、実際は電話という)、編集長から著者への原稿催促の電話、もらった原稿についての編集会議でのやりとり、・・・。岩波ホールで買ったプログラムによれば、配役名は編集長がウィリアム・ショーン。秘書的な女性編集部員がフランシス・ウェルズ。そして、編集校閲担当のような男性編集者は、ジョナサン・シェルとなっている。
ウィリアム・ショーン William Shawn は、1925年に創刊された『ニューヨーカー』の編集長。1939年から編集責任者 assistant editorに、1952年からは創業者兼編集長のハロルド・ロスの死去を受けて2代目編集長editorに就任。そして87年に新しい経営者に解雇されて退職する。実に80歳まで53年間『ニューヨーカー』でらつ腕をふるってきた。
アメリカの雑誌出版界では伝説的な名編集者としてつとに知られた人だ。彼を有名にしたのは、サリンジャー、カポーティ、アップダイクなどの作家を育てたことだ。彼らの本にはいつもショーンの名前が献辞とともに記されている。
ショーン関係の本が翻訳されているか、調べてみると、ある。新潮社から2000年に翻訳出版された、『「ニューヨーカー」とわたし―編集長を愛した四十年』(リリアン・ロス著、古屋美登里訳)である。
その帯の文がすごい。「禁じられた愛。それは編集部で育まれた。名ルポライターが告白する、あの「ニューヨーカー」に君臨した名編集長、ウィリアム・ショーンとの不倫の日々。米文壇を揺るがしたノンフィクション。」
スタッフライターの女性がショーンとの40年にわたる不倫関係を告白した本だ。ここでだれもが、あの映画に出てきた、『ニューヨーカー』誌の女性秘書で編集者のフランシス・ウェルズを思い浮かべる。
同書の中にこんなくだりがある。「ビル(ウィリアム・ショーンのこと)が執筆を依頼した類い稀な作家に、晩年のハンナ・アーレントがいる。ビルは彼女の考え方が好きだった。彼女の著作をビルはすべて読んでいたが、私は関心を抱いたことはなかった。」
いよいよ、あの映画でビルにハンナへ原稿督促を促す女性編集者(秘書)が、このリリアンではないかと思いたくなる。続いてこう書いてある。
「ビルから聞いた話では、ハンナ・アーレントはリヴァーサイド・ドライヴにあるアパートメントで、スーザン・ソンタグとメアリー・マッカシーシーとジョナサン・シェルを足もとに侍らせて、自分の政治信念について語ってきかせる心地よい夕べをこよなく愛していたという。」
すごい人が出てきました。スーザン・ソンタグ。しかし、彼女は映画には登場しない。
映画では、ハンナのよき理解者として、メアリー・マッカシーシーが出てくる。たしかにメアリーとハンナの往復書簡集というのがあり、その翻訳が法政大学出版局から出ている。実は『グループ』の著者とは知っていたが、ハンナとの関係はうかつにも知らなかった。この本は1962年に出版され、66年にはシドニー・ルメット監督が映画化している。主演はキャンディス・バーゲン。
もうひとり、ジョナサン・シェル。映画では『ニューヨーカー』の編集者として出ているが、ジョナサンは1943年生まれだから、1962年当時はまだ19歳のはずだ。
だが、リリアンも同書の別な箇所で、ビルが「ジョナサン・シェルとは20年にわたり、その時々の重要な政治的出来事について毎週毎週話し合いを続けた。」と書いている。
『ニューヨーカー』の有能な記者として活躍したジョナサンは、82年に「地球の運命」という記事を同誌に発表、これは同名の本にまとめられ、大ベストセラーとなった。ジョナサンがハンナの影響を強く受けていることや、後のちの活躍から映画ではどうしても必要な配役となったに違いないと思われる。
そのジョナサン・シェルは今では有名な反核ジャーナリストとして活躍している。前述の『地球の運命』など、2冊の邦訳がある。
スーザン・ソンタグもハンナ・アーレントの弟子といわれる。1962年当時、ハンナのところに出入りしていたかもしれない。後年、彼女も『ニューヨーカー』に寄稿している。
映画では、編集長のビルがハンナの家に出かけ、原稿と作業中の校正刷を前にいろいろ注文をつけ、解決していく場面が続く。われわれにも見慣れた光景だ。
さて、リリアンの本に戻る。「(ハンナの)原稿をチェックするという骨の折れる作業を担当したのはビルだった。彼女の手に負えないドイツ風の文章をわかりやすく直さなければならなかったからだ。」
「『ニューヨーカー』の伝統的な編集作業を経ることで、原稿が見違えるほど素晴らしいものになることを身をもって知っている書き手なら、これがどれほど時間のかかるつらい作業であるかわかっている。とんでもない集中力と辛抱、重箱の隅をつつくような細やかな神経が必要なのだ。だがそれを経験すると、どの書き手も必ず成長する。かなりいい物書きになる。(中略)文章の明晰さ、論理性、密度、文法、構成、反復語、英語の言葉の美しさへの追求―ビルと書き手の大半はそのことに気を配っていた。」
なかなか言いますね。まさに編集者の世界だ。同じ匂いがする。
すでに高名な思想家であったハンナ・アーレントを、ビルはあえて文芸作家、報道記者としてあつかい、それも英語表現に問題のあるライターとして、文章の一字一句の手入れから細かく指導したのだ。たぶん、ハンナはいままでドイツ語で執筆し、編集部の手で英訳された本を出してきたのだろう。
しかし、学術書はいいが、文芸書は違うぞ。思想家としては一流だが、ジャーナリストとしては新人だ。
映画では描かれない、ハンナとビルの間に数週間にわたる激烈な戦争があったようだ。最初は彼女も協力的だった。しかし、ビルはある日、ハンナから罵詈雑言をあび、なおかつ「こんなやりかたは馬鹿げている。」「これ以上質問に答えたくはない、これ以上原稿に手を入れるつもりはない」とののしられる。
リリアンはハンナのアパートから出てきたビルの顔が青ざめ、身体がぶるぶる震えているのを目撃する。もはやアイヒマン裁判の原稿掲載は不可能かと思われた。
翌日、ビルはふたたびハンナ宅へ。しかし、状況は急変する。ハンナはよそよそしかったが、ビルのすべての質問に答え、直しにも応じた。
ようやく、雑誌掲載に進んだ。第一部は1963年2月16日に掲載された。しかし、ハンナのその連載はユダヤ人社会やイスラエルからだけでなく、『ニューヨーカー』の一般読者(多くは東海岸のWASP)からも猛反発を受けたのだ。
ハンナの執筆は1962年の夏から秋にわたり、11月に完了。63年2月、3月に5回に分けて、「イェルサルムのアイヒマン」というタイトルで『ニューヨーカー』に掲載された。そして、同じ表題のもと、同年5月に単行本として刊行された。
映画『ハンナ・アーレント』の劇場上映にあわせ、邦訳『イェルサルムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)が重版された。私が手にしているのは、2013年10月25日、新装版第14刷発行の本。初版は1969年9月。さすが、44年前の翻訳だからだろうか。「ナチ」が「ナツィ」と日本語表記された訳文に驚く。