(77)『未来へ』が未来へ運ぶ「ことば」
[2020/6/27]

岡村幸宣さんの新著、『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011−2016』(以下、『未来へ』と略)が出版されたのが3月3日。コロナ禍の中での、厳しい船出だった。しかし、2月中に印刷・製本できたのは、むしろ幸運だったというべきかもしれない。これが4月、5月なら本が出せなかったかもしれない。民間の原爆の図丸木美術館も4月9日より臨時休館、ようやく6月9日に再開した。幸い本書への書評・紹介記事は途切れることなく続いている。

「折々のことば」に登場

「折々のことば」は哲学者の鷲田清一(わしだ・きよかず)さんが、『朝日新聞』の第一面に毎日連載しているコラムである。この「折々のことば」に、『未来へ』から、2日にわたって「ことば」が引用され、本書のことも紹介された。
(別稿の「今週のトピックス」も参照)

◆6月19日の「折々のことば」

「彼らの仕事は恐怖を芸術と祈りに変える人間の力の証明です」……「原爆の図展」感想ノートから

2015年6月から12月までの「原爆の図」の米国(アメリカ)巡回展は、ワシントンDC、ボストン(ボストン大学ストーンギャラリー)、ニューヨーク(パイオニア・ワークス)の3都市で行われた。「原爆の図」は、米国の首都では初めて展示されたのだ。今回3会場に出品された「原爆の図」は、第1部《幽霊》、第2部《火》、第10部《署名》、第12部《とうろう流し》、第13部《米軍捕虜の死》、第14部《からす》の6作品だった。この米国巡回展での作業日誌は、いわば本書『未来へ』の中でのハイライトにあたる部分だ。

引用された先の「ことば」は、巡回展の最初の展示が行われたワシントンDCにあるアメリカン大学美術館での「広島・長崎原爆展HIROSHIMA-NAGASAKI ATOMIC BOMB EXHIBISHON」、その会場内に置かれた「感想ノート」に記されていたものである。
学芸員の岡村は展示の初日に歩行器を使って歩く白髪の老人が、第13部の《米兵捕虜の死》の前に歩み寄り、崩れように座り込むのを見る。そこに日本のメディアがいっせいに彼を取り囲んで原爆投下について質問を投げかける。「私たちもこの絵のようになるかもしれなかった。日本は中国で何をしたのか」その老人は苛立つようにそう答えた。翌日、大学の会場に行くと、昨夜は憔悴して帰宅したであろうあの老人がなんと再び会場にあらわれ、時間をかけてじっくりと絵を観てまわっているではないか。あとで、彼が94歳の退役軍人で、広島に原爆を投下したB29が飛び立ったテニアン島に勤務していた元通信兵だったことを知る。
1945年8月6日午前8時15分、マリアナ諸島のテニアン島から飛来したB29(機名は「エノラ・ゲイ」といい、これは機長の母親の名前だそうだ)は広島上空で原爆(「リトルボーイ」)を投下した。それから70年がたった。この米国巡回展は2011年から準備してきてようやく実現したものであった。
実は「原爆の図」の米国巡回展は2015年のこの巡回展がはじめてのことではなかった。いままでの歩みを整理すると以下のようになる(『未来へ』、『《原爆の図》全国巡回』、図録『原爆の図 丸木位里と丸木俊の芸術』『サーカス博覧会 記録集』を参照した)。

*1950年 最初の米国(アメリカ)展計画案が浮上。控えの三部作の再制作版の制作を進める。羽田飛行場に搬入直前にキャンセルして、中止
*1970年10月〜71年2月 「原爆の図米国巡回展」アメリカ8カ所に巡回展、うち1カ所は中止。この中の会場には、フロリダ州のサーカス関係を専門に収集・保存しているリングリング博物館も含まれていた。袖井(そでい)林二郎やクエーカー教徒が巡回展の実現に尽力する。丸木夫妻も渡米。当時の『ニューヨーク・タイムズ』は、「程度の悪い美術品よりもっと悪い。ある目的をもってつくられた芸術作品は、作者が真剣だからとか、意図が立派だからとか、主題が重要だからということで、正当化されるわけにはいかない」と酷評した。出品は第1~8部。第13部の《米兵捕虜の死》が制作されたのは、この米国巡回展が終わった後である
*1988 3月〜4月「マサチューセッツ芸術大学展」出品は第1、4、7、13部
*1995年9月「マカレスタ・カレッジ(マカレスター大学)展」(ミネソタ州セントポール市)出品は第8、13部。同展には高齢の丸木夫妻に代わってヨシダ・ヨシエが帯同。丸木位里はヨシダが帰国後の10月19日に亡くなる

このような米国巡回展の前史をうけて、2015年の巡回展が行われた。戦勝国、原爆投下国の米国での「原爆の図」の前には、依然としてまだ大きな壁がある。しかし、時代は確実に移り変わってきている。今回の巡回展は、早川与志子をはじめ、キャサリン・サリヴァン、平田道正、ピーター・カズニックらの協力なしには実現しなかった。そして今もなお原爆投下を正当とする意見が根強いと言われる米国で、「原爆の図」はどう受けとめられたのか。好意的な反応だけでなく、批判もあった。それを知りたくて、会場のあった感想ノートをめくり、このことばに出会う。

◆6月20日の「折々のことば」

かたちのきれいな松ぼっくりだけ選んじゃだめよ。かたちの良くないのだって、面白いんだから。みんな同じ松ぼっくりなんだ。……万年山(まねやま)えつ子

万年山えつ子さんは、丸木俊(とし)さんにそうおそわった。川越在住の画家、万年山さんは、俊さんが亡くなった翌年の2001年から10年間の毎月、丸木美術館で工作教室を開いてきた。2012年12月8日のこの日、この工作教室が最終回を迎えた。工作の材料は毎回、万年山さんが用意してくる。松ぼっくり、コルク、箪笥の取っ手、車のホイール、貝殻、下駄、足袋、潰れた空缶・・・。みな廃品だった。これらを再利用して命を吹き込む。そして壁掛けやオブジェが生まれた。

万年山さんは言う。「ぺしゃんこに潰れた空き缶だって、ジュースを飲んで道に捨てた人と、車のタイヤで轢いた人、それから拾って工作する人の、コラボレーションでしょう」そして「人が選ぶことの不遜をふと思う」という、この鷲田清一のコメントは重い。2013年1月26日には、この工作教室を記録した「丸木美術館クラブ・工作教室の10年展」が開かれている。
万年山さんは、自宅の隣家で心の病を抱えた人のために自浄(じじょう)アトリエ「カルディア会」(カルディアはギリシャ語で心を意味する)を開いている。丸木美術館では、2004年11月に「心(カルディア)の出会い展 万年山えつ子と仲間たち、そして出会った人々」が開かれた。
学芸員の岡村の家族も万年山さんに助けられたことがあった。結婚して最初の子が生まれた頃、家計も苦しかった。万年山さんは毎週のように玄関先にペットボトルにつめたカレーや買いすぎたという食材などを持ってきてくれた。岡村家は何とか暮らしていけるようになったから、万年山さん、今は別な人を助けているはずだ。

本書『未来へ』には400人近い人名が人名索引、脚注事典として収録されている。しかし、その2倍、3倍にもなる有名・無名な人々が「原爆の図」の前を通り過ぎ、それぞれの「ことば」を紡いで本書の中に収めている。それらを読むことによって、未来の命を救う道をたどる旅に向かう。