(43)20歳の映画人、羽仁進
[2019/10/25]

7月13日に『不良少年』(61、白黒、91分)を、10月23日に『蠅のいない町』(50、白黒、12分)、『教室の子供たち―学習指導への道―』(54、白黒、29分)、『法隆寺』(58、カラー、23分)、『絵を描く子どもたち―児童画を理解するために―』(55、パートカラー、39分)の4本を見た。
『不良少年』は市ヶ谷の記録映画保存センターの「第4回羽仁監督と映画を見る会」(愛称「羽仁塾」といい、羽仁監督と若い映画作家が集まる会)で、残りの4本は都内の現像所の試写室で見た。これはハーバード大学のフィルムアーカイブ(Harvard Film Archive)が羽仁監督作品の一部を収蔵することになり、この4作品が新たに35ミリフィル厶にプリントされた。幸運にも、その初号の検品上映に立ち合うという機会に恵まれたのである.

『不良少年』は1961年(昭和36)の「キネマ旬報ベスト・テン」(日本映画)で、黒澤明『用心棒』(第2位)、木下恵介『永遠の人』(第3位)、小林正樹『人間の条件』(第4位)、松山善三『名もなく貧しく美しく』(第5位)を押さえて、第1位と監督賞を受賞した。またマンハイム国際映画祭金賞、日本映画監督協会新人賞をそれぞれ受賞。
*記録映画保存センター:http://kirokueiga-hozon.jp
ここから、羽仁監督がかかわった作品が検索できる

羽仁進監督は1928年10月生まれだから、本年満91歳。7月の会にはとてもお元気な様子で登場され、『不良少年』の撮影の裏話を楽しくお話された。どうやって役者になる元不良少年を集めたか? 監督補を務めた土本典昭のことや、木工班班長の藤川を演じた山崎耕一郎は撮影終了後、羽仁の後を追って、岩波映画製作所に入り、演出を担当した、ということなど。
『不良少年』が公開された1960年は安保闘争が高揚した年でもあり、フランスのヌーヴェルヴァーグ作品の『勝手にしやがれ』(ゴダール、59)、『大人は判ってくれない』(トリフォー、59)が日本公開されたのも、1960年。この年、大島渚の『青春残酷物語』も公開された。




映画のチラシ、シナリオの一部から(いずれも記録映画保存センター提供)

この数年、国内外での羽仁進作品の再評価が高まっている。日本では大阪のシネ・ヌーヴォが2015年6月~7月に「映画の天才 羽仁進映画祭」を開催し、20作品を上映している。
東京のシネマヴェーラ渋谷では、2017年7月に「羽仁進レトロスペクティブ 映画は越境する」と題し19作品を上映した。その口上より。「近年、ウィーン映画祭、ニューヨーク近代美術館、ハーバード大学、エール大学などで特集上映が行われ、世界的に注目が集まっている。ドキュメンタリーとノンフィクション、プロとアマチュア、大人と子供、男と女、日本と世界、全ての境界を軽やかに超えていく映画作家・羽仁進……」
このシネマヴェーラ渋谷は2019年2月~3月に「日本のヌーヴェルヴァーグとは何だったのか」を特集、羽仁作品の『不良少年』と『愛奴』(69)も上映している。
そして、川崎市市民ミュージアムの映像ホールでは2019年5月~7月に「岩波映画製作所の監督たち」が特集された。ここでは、羽仁進、黒木和雄、小川紳介、東陽一の映画18本が上映された。羽仁作品は『教室の子供たち』『絵を描く子どもたち』『海は生きている』(58)『不良少年』『午前中の時間割』(72)の5本である。

今回見た中で、最も古い映画の『蠅のいない町』(50)は、羽仁進の監督作品ではない。羽仁は1949年21歳の時、1年間勤めた共同通信記者をやめ、設立したばかりの岩波映画製作所に入る。当時は準備室といい、所員は映画カメラマンでプロデューサーを兼ねる吉野馨治(けいじ)と羽仁の二人きり。この映画『蠅のない町』は岩波映画の最初の作品で、監督は村治夫、撮影は吉野馨治、脚本は吉野と羽仁進。羽仁にとって最初にかかわった映画作品だった。
『岩波映画の1億フレーム』(東京大学出版会、2012)には羽仁の講演録「僕と岩波映画」が収録されているが、さらに突っ込んだインタビュー(「一人ひとりのおもしろい瞬間を引き出す」)を『ドキュメンタリー映画術』(金子遊著、論創社、2017)で読むことができる(インタビュー収録は2014年12月)。
これによると、『教室の子供たち』の撮影は江東区の墨田小学校で行なわれ、撮影期間は25日間だった。スタッフは監督の羽仁、助監督の羽田澄子、撮影の小村静夫、録音の桜井善一郎の4人。使用したカメラは新鋭のアリフレックス。小学校2年生の教室の中にアリフレックスをそのまま備えたが、子どもたちは30分ぐらいで撮影隊への興味を失い、それで落ち着いて自然体の子どもたちを撮影できたという。また、望遠レンズを多用したという。
一方、『絵を描く子どもたち』は絵の具メーカーがスポンサーになってくれたので資金もあり、もっと長い期間撮影できた。舞台はやはり下町の小学校、入学したばかりの一年生を対象に4月から撮影を始め、10月まで、あしかけ半年のあいだに撮った。スタッフは羽仁監督とカメラマンとアシスタントの3人。週に2日間くらい小学校に通い、他の仕事もしながら撮影を続けたという。
実は、『教室の子供たち』(54)と『絵を描くこどもたち』(58)の間に、羽仁は『双生児学級―ある姉妹を中心に―』(56、白黒、40分)という東京中野のある双生児学級の記録映画を撮っている。『教室の子供たち』の姉妹編と位置付けられ、この作品を入れて、これら三作品を「羽仁の教室三部作」と呼ぶひともいる。

さて、ここまで書いて、大事な資料を紹介するのを忘れていた。草壁久四郎著の『映像をつくる人と企業――岩波映画の30年』(みずうみ書房、1980)だ。創設期の岩波、若き日の羽仁進について、詳細に記している、この資料については次回に。