(37)上野誠版画展
[2019/9/14]

当コラム(19)[2019/4/27]で紹介した版画家・上野誠の特別展「上野誠版画展—『原爆の長崎』への道程—」が、京都市の立命館大学国際平和ミュージアムで開かれる(2019年11月7日~12月18日)。先日、国際平和ミュージアムからチラシとポスターが送られてきた。

    

特別展のサブタイトルにもなっている『原爆の長崎』は、新宿書房が1970年7月に出版した上野誠の版画集だ。正式タイトルは『上野誠 平和版画集 原爆の長崎』。B4判、80頁。当時の新宿書房は法人化されておらず、「株式会社桜映画社出版部」となっている。発行者は村山英治。

    

いま手許にある数冊の保存本をみると、この『原爆の長崎』には、並製(ソフトカバー)と上製(ハードカバー・角背・保護段ボール箱入り)の2種類があったようだ。それぞれ奥付をみると、並製は、定価1300円、部数は不明。
上製本の奥付には、限定500部とあり、定価は3000円となっている。そして上製本には特別付録の版画がついていたらしい。「うえの・まことのはんが《海を越える鳩》」と題する手摺りの版画が各冊に挟まれていたようだ。

  

目次構成は以下のようになっている。
序文 「平和へのあふれる愛」若月俊一(長野県佐久病院長)
   「戦争はなにをもたらしたか」山本薩夫(映画監督)
本文 版画作品
■平和■ヒロシマ■原爆の長崎 その1■原爆の長崎 その2■その他の作品■戦前の作品から■“原爆の長崎”の記(文=上野誠)
収録されている版画図版は76点。前見返しと後見返しには同じ版画《ひろしまの人の訴え》(1957)が入っている。この作品は、現在《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》というタイトルの表記で知られ、製作年も1955年である(栃木県立美術館蔵など)。

 
〈ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え〉

前のコラムでも書いたように、上野誠(1909〜80)と村山英治(1912〜2001)の関係ははっきりしていない。
上野は長野県川中島生まれ、村山はその近くの屋代生まれ。長野中学出身の上野は東京美術学校で学内民主化運動に関わり退学、1932年に帰郷する。
村山は屋代中学から長野師範を出て、1931に長野県上水内郡の小学校教員となる。1933年2月に治安維持法違反で検挙(いわゆる「長野県教員赤化事件」、今は「二・四事件」と呼ばれる)され、最初は長野署に留置、その後長野刑務所に拘置、1年3ヶ月にわたって拘束され、翌34年5月に懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けて、釈放される。上野、村山の二人はある時期、同じ善光寺平のどこかで出会っていたかもしれない。
『原爆の長崎』にある上野自身の「わたしの画歴」によれば、「1952年 丸木位里夫妻の「原爆の図」の新潟県内移動展を組織。(中略)映画『山びこ学校』のポスター、映画『真空地帯』の宣伝資料等のために版画製作。・・・」とある。映画『山びこ学校』(52)は今井正監督作品、『真空地帯』(52)は山本薩夫監督作品だ。これが『原爆の長崎』に所収の山本薩夫の「序文」につながる。

 
「山びこ学校」ポスター

今回の立命館大学国際平和ミュージアムでの展覧会は、1952年に上京した後、上野がどのように原爆被害者の体験に向き合い、これをどう版画作品にしていくかの過程を辿ったものだ。友人で北海道の北見にいた景川弘道との手紙のやりとり、「日々通信」を糸口に、『原爆の長崎』の刊行までの道を明らかにする。
今年は上野誠生誕110年にあたる。いままでに開催された上野回顧展は数回あるが、主なものは以下の展覧会だ。

「上野誠展――鎮魂の木版画家――」(1998年10月25日~1999年1月24日、神奈川県立近代美術館[別館])
「上野誠/ケーテ・コルヴィッツ展」(2018年2月8日~3月26日、佐喜眞美術館)

ケーテ・コルヴィッツ(1867~1945)はドイツの女性版画家・画家。上野は1937年、中国人留学生で版画家の劉峴との交遊からケーテ・コルヴィッツの存在を知り、以後影響を強く受ける。また儀間比呂志(1923~2017)は1950年代に上野誠から木版画の手ほどきを受けた。

最後に長崎県美術館の上野誠「作家解説」がよくまとまっているので、以下紹介する。

長野県川中島(現・長野市)に生まれ、1929年に東京美術学校に入学。共産主義運動に影響を受けて学内改革運動に関わり、1932年に検挙・拘留を経て、1933年に放校処分となる。その後、東京や郷里で綿製品仕上げ工や鉄道工夫、土工などの労働に従事し、その傍ら創作版画誌に感化されて木版画を始め、1935年に川中島で木版画の頒布会を開いた。
1936年、国画会版画部に初入選し、1944年まで同展への出品を続けた。1937年、平塚運一を通じて出会った中国人留学生版画家を通して魯迅の木刻運動とケーテ・コルヴィッツの作品に導かれ、大きな影響を受けた。
戦時中は学校教員として鹿児島や岐阜に赴任し、1945年に玩具デザインの職を得て新潟の魚沼(引用者注=正確には南魚沼郡六日町、現在の南魚沼市)に転居、農民や労働者を題材に木版画を制作した。1946年、日本共産党に入党。1950年代初めには「魚沼六郎」という名で木版画を発表している。
1952年、丸木位里・俊の《原爆の図》の新潟県内移動展を組織。同年に上京し本格的な制作活動を開始する。1954年、第五福竜丸事件や広島の被爆者との出会いを契機に原爆をテーマにした作品に取り組み始める。1957年、第1回東京国際ビエンナーレで入選。1958年、日本版画協会会員となる。1959年、「ヒロシマ三部作」がライプツィヒ国際書籍版画展で金賞を受賞。
1961年夏、長崎を旅行し、原爆病院を訪ねて被爆者たちを取材。同年秋に小品連作に着手し、翌年に連作「原爆の長崎」として発表された。1962年8月、長崎市8.9文化祭で「上野誠版画特別展覧会」が開催される。同年12月、個展「原爆の長崎」を東京の養清堂画廊で開催。1964年、全ソ連邦美術家同盟の招きでソ連を旅行、モスクワで個展を開催した。
1968年2月、二回目の長崎旅行。1970年、版画集『原爆の長崎』(新宿書房)刊行。1975年、個展「原爆の長崎」開催(東京、美術家会館内ホール)。
1980年、肝硬変で死去。翌1981年、『上野誠全版画集』(上野遒編、形象社)刊行される。