(70)自前のメディアをもとめて—明治両毛の山鳴りから
[2020/5/9]

郵便物などをチェックに1週間ぶりに事務所に。その中に、田村紀雄著『自前のメディアをもとめて−−移動とコミュニケーションをめぐる思想史』(編集グループSURE、2020年6月15日)があった。著者からの贈呈本だ。

実は昨年末に、SUREの北沢街子さんから電話があって、「いま田村紀雄さんと一緒なんです」といい、田村さんがその電話に出られて、久しぶりにお話をしたことがあった。たいへんお元気な声だった。なにか、SUREで企画が進んでいるのかなとは思ったが、この本が送られてきて驚いたというわけだ。さらにSUREからは、この本の新刊のチラシの入ったDMも送られてきた。
このチラシのキャッチコピーと著書の「あとがきにかえて」を読むと、本書の誕生の舞台裏がわかる。昨年11月、12月の3回にわたる著者(田村紀雄)へのインタビュー(聞き手・SURE編集部=黒川創・瀧口夕美・北沢街子)は、合計20時間近くにも及んだという。田村さんはこのインタビューに対して、事前に詳細なシラバス(講義内容)を用意したそうだ。
田村紀雄(たむら・のりお1934〜)さんは、今年9月に86歳を迎える。社会学者にして、ノンフィクション作家。1995年に東京経済大学新設のコミュニケーション学部の初代学部長、そして2005年定年退職、名誉教授に。
さて、本書は3章に分かれている。

第1章 「動機」の個人史――『明治両毛の山鳴り』(1981年)に至るまで
第2章 自立したメディアの水脈――『ガリ版文化史』(1985年)の周辺
第3章 越境と再定着への道程――『移民労働者は定着する』(2019年)の視野

3冊の著書を柱にしながら、問答形式による構成になっていて、「広く読者にわかりやすい、田村さんの独創的な〈コミュニケーション思想史〉の本 になっている。チラシの表現を借りると、「現役で続ける仕事の全貌を、いま初めて語り尽くす、自伝的連続講義!」となる。
目次構成を内容から見てみる。

第1章 社会主義者、クリスチャン、鉱毒農民らが創り出した両毛地方の民衆言論、地域に根ざす民衆史
第2章 小さなメディア、そのツールとしてのガリ版印刷
第3章 移民社会と日本語新聞

私は『明治両毛の山鳴り――民衆言論の社会史』(百人社)、『ガリ版文化史――手作りメディアの物語』(志村章子さんとの共編著、新宿書房)の2冊までしか、田村さんと伴走できなかったが、本書を読んでみて、あらためて大きなすそ野が広がる「田村民衆言論史研究」の全体像がわかったような気がした。
「田村さんの仕事は、田中正造と足尾鉱毒事件をめぐる地域史研究に始まり、自立した小さなメディアに着目してのコミュニケーション論の展開、海外移民の再定住に至るプロセスのフィールドワークなど、とどまるところを知らない領域の広さを示しています。同時に、ここには、困難のなかでも懸命に活路を切りひらいて生きた、名もなき人びとの運命の軌跡を明らかにしておきたいという、学問上の動機と熱意が一筋のものとして貫かれています。」(SUREのチラシから)
田村さんのパーソナル・ヒストリーから、いくつかのことを知った。最初の高校、栃木県立栃木高校時代の1年生のとき。その時の生徒会長が宇井純(うい・じゅん1932〜2006)だ。ここで教員3人のレッドパージを目撃。2年の時に群馬県立太田高校に転校。高校卒業後、家庭の事情で働き始め、法政大学社会学部に入学したのは、22歳。卒業は25歳で、以後フリーライターとして働く。定職の東京大学新聞研究所助手になったのは、1966年、32歳の時だ。
太田高校在学中の面白いエピソードを知る。「当時は、丸木位里・俊夫妻の《原爆の図》を、各地で展示して歩くというのが、日本の平和運動のひとつのツールだったんです。それを太田でもやった。高校3年のときです。」(本書『自前のメディアをもとめて』12ページ)この巡回展は、岡村幸宣著『《原爆の図》全国巡回』(2015年、新宿書房)からもウラが取れる。それによると、1952年8月28日〜31日まで、太田市・太田小学校で開かれた[原爆の図展]のようだ。8月28日の『上毛新聞』に同展の記事が記載されている。

本書では、『明治両毛の山鳴り』と『ガリ版文化史』のカバー表紙画像をそれぞれ1ページ大に掲載してある。最後にこの装丁の裏話をしよう。
『明治両毛の山鳴り』のタイトルでは、私が出した案に、装丁の田村義也(たむら・よしや1923〜2003)さんから、ことごとくNGが出て、難航。イメージのわかないタイトルはダメだと却下。タイトルは副題がないほうがいい、タイトルに自信がないから副題で説明しようとする。これも義也さんの意見。
明治の両毛地方を舞台に小さな民衆メディアをかかえた若者たちが、中央(東京)に直結させるのでなく、横から横へ、町から村へと歩く、社会主義思想をひろめる「ヴ・ナロード(人民の中に行く)」の運動を展開しようとしていた。その動きは初め小さくて静かなものだが、やがて大きなうねりとなって音をたて、山をも動かす力となる・・・。こんなイメージで表現できる、なにかいい言葉がないだろうか。
「海鳴り」「雷鳴」「地鳴り」「高鳴り」……。そのうち、鉱山用語にもある、「山鳴(やまな)り」という言葉を見つけた。「山鳴り=地震、噴火の前触れとして、山が音を立てること」。おー、これだ。これがいい!
こうして、『明治両毛の山鳴り――民衆言論の社会史』のタイトルは生まれた。

さて、『ガリ版文化史』のこと。それは装丁者のことだ。カバーのバックは四国謄写堂の謄写版鉄筆用原紙(4ミリ方眼)、つまり未使用のガリ版のろう原紙を縮小して使用した。
題字はカバー・表紙とも孔版家の水谷清照(みずたに・きよてる)さんにガリ切りをしてもらった。表紙の表の筆耕文字は孔版家の草間京平(くさま・きょうへい)さん、裏の筆耕文字は同じく孔版家の若山八十氏(わかやま・やそじ)さん。ところが、装丁者の名がどこにもない。今ここで初めて明かすが、装丁者はこの私だ。編集者自装である。版下はポンチ絵のような指定紙を書いて、印刷所の福音印刷(現・フクイン)に渡し作ってもらった。本文印刷は理想社印刷所(現・理想社)、活版印刷である。

  

『明治両毛の山鳴り――民衆言論の社会史』については、つい先日に当コラム(65)「百人社に3冊」で、その1冊としてふれたばかりだ。
『明治両毛の山鳴り』は、私が独立して作ったひとり出版社・百人社の最初の本。なにもかも懐かしい本だ。本文は理想社印刷所(現・理想社)で活版印刷、カバー・表紙・本扉・帯などの付物は栗田印刷(その後、廃業)。このあたりのことは装丁の田村義也さんの著書『のの字ものがたり』(朝日新聞社、1996)にくわしい。
帯の表のキャッチは次のようだ。「明治両毛(りょうもう)の大地に生きた田中正造、森鴎村。そして高畠素之、長加部寅吉らの青年たちと無数の鉱毒農民。彼らはさまざまなサークルをつくり、明治国家に対峙した。彼らが創り出した、うた、手紙、ビラ、小雑誌、小新聞を「民衆誌学」という視角でとらえ返した力作!」自分で作ったコピーを褒めるつもりはないが、うまくまとめている(自画自賛)。
そして、帯の裏には鶴見俊輔さんが文章を寄せている。
「(前略)本書は両毛に生きた明治の青年たちが、いかに自分たちの言論(オピニオン)をつくり伝えていったかを、あくまでも両毛の地域の眼(ミニコミとパーソナル・コミュニケーション)を通してたどった労作である。方法上の吟味がゆきとどいているので、思想史に関心をもつ人々に強く働きかける力をもっている。」
田村紀雄さんは鶴見さんたちが始めた『思想の科学』の会員であり、同誌に数多くの文章を寄せている。そのことが今回のSUREの新刊『自前のメディアをもとめて』の企画の出発点にあったにちがいない。



また田村さんは、社会学者にして、ノンフィクション作家という形容がよく似合う。いや、ノンフィクション作家にして、社会学者か。『明治両毛の山鳴り』の最初の「序 民衆言論史への布石」は書き下ろしだが、9つの文章は過去12年にわたって雑誌などに書かれたものだ。


脚本家・映画監督の松川八洲雄による「両毛地方の風土と人々」

この書き下ろしの「序」は本書の構成をまさに俯瞰している。そして、民衆資料を体系的に発掘し、批判的に吸収してゆく方法論として、「民衆誌学」を提唱しているのだ。
冒頭の松川さんの絵地図もいい。両毛(りょうもう:毛の国の上毛野と下毛野、今の群馬県と栃木県)地方とは、東は碓氷峠から西は谷中までの地域で、河川でいうと利根川水系と足尾銅山の上流から始まる渡良瀬川にかこまれた地域である。松川絵地図の上には、市・町・村それとキリストの教会、主要人物、転入者の名前が落とされている。JRには「両毛線」(栃木県小山駅〜群馬県高崎駅・新前橋駅)があるので、両毛地方のことはある程度イメージできるかもしれない。
この地図の一番右側に「谷中」の文字がある。谷中村のことで、1906年(明治39)に足尾銅山の鉱毒を沈殿させるために計画された渡良瀬遊水地にために、強制的に廃村にされた。その際、藤岡町に吸収され、いまは栃木市藤岡町になる。このかつての谷中村の片隅に「田中霊祠(れいし)」がある。田中正造の分骨と夫人を祀った神社だ。『明治両毛の山鳴り』ができたばかりの1981年4月の例祭日に、東京から新刊本を車に積み、荒地の広がる境内で売ったことが懐かしい。

  

今回、久しぶりに『明治両毛の山鳴り』をじっくり読んだ。やはり、田村紀雄さんはノンフィクション作家にして、社会学者だ。ノンフィクションの中にアメリカ社会学概念を大胆に注入して分析している。ある意味の社会集団論だ。上に紹介したチャートはそれをよく示している。それと、同書の中で、とりあげている雑誌の中では、『東北評論』のことと新村忠雄(にいむら・ただお1887〜1911)のことが一番気になる。新村は長野県埴科(はにしな)郡屋代(やしろ)町から信越本線に乗って、高崎にあった東北評論社に通う。『東北評論』の最終号(第3号、1908年(明治41))で急遽、印刷の名義人になり、新聞紙法違反で告訴され、前橋刑務所に入獄。さらに1910年(明治43)の大逆事件に連座、翌年死刑執行を受けた。この新村のことはまたの機会に書いてみるつもりだ。


『東北評論』の最終号(第3号)表紙