(73)新村忠雄の歩いた時間
[2020/5/30]

前のコラム(70)の最後のところで大逆事件(1911[M44])で死刑になった12人のひとり、新村忠雄(にいむら・ただお)の名前を出した。今回、この新村と同じく死刑になった古河力作(ふるかわ・りきさく)とふたりの熊野人、大石誠之助(おおいし・せいのすけ)と成石平四郎(なるいし・へいしろう)の4人について書いてみたい。
次の4冊の本を読んでみた。刊行順に並べてみよう。
●村山英治著『大草原の夢――近代信濃の物語』(新宿書房、1986)

●石山幸弘著『櫛の十字架 大逆事件の渦――新村忠雄と阿部米太郎』(かもがわ出版、2011) 2011年は大逆事件首謀者の処刑から100年目。さまざまな行事があり、数多くの書籍が出版された。本書もその1冊。464ページの大冊の歴史小説である。にもかかわらず、24もある章には数字のみでタイトルもない。読者にとって不親切である。表題の「櫛の十字架」が何を意味するかもなかなかわからない。副題にある阿部米太郎とは『東北評論』に関係した群馬県荒砥村の農民で、著者はここで同人と阿部とのあいだで交わされた250通を超える書簡を元に本書を書いた。大逆事件直前の「特に晩年の2、3年余の足跡を追ってみた」(「あとがきに代えて」)作品。巻末にある参考文献の中には、田村紀雄著『明治両毛の山鳴り』(百人社、1981*同書ではなぜか昭和34年9月と誤記)と宇江敏勝著『熊野川――伐り、筏師、船師、材木商』(新宿書房、2007)がある。前者は新村忠雄と『東北評論』についての参考文献として、後者はドクトル大石こと大石誠之助の住む新宮の町の様子を描くための参考文献として使われたに違いない。同じ著者には、『大逆事件と新村善兵衞』(川辺書林、2017)という本があるがこれは未見だ。善兵衞は忠雄の兄で大逆事件では懲役8年の判決を受けている。

●崎村裕著『百年後の友へ 小説・大逆事件の新村忠雄』(かもがわ出版、2011)同じ版元から、石山著の本の8ヶ月後に出版された小説。カバー裏表紙には、長野市で新村忠雄らが発行した月刊誌『高原文学』(1908[M41]7月12日第1号)の表紙が収められている。

●柳広司著『太平洋食堂』(小学館、2020)本書は『週刊ポスト』で2018年10月から2019年12月までに連載された後、単行本になった長編小説だ。著者は、巻末にこう書いている。「2018年1月、大石誠之助を名誉市民とすることを決議した新宮市議会に敬意を表します。」これが本書執筆のきっかけだったようだ。
小説なので、どのような参考文献を使ったかは巻末にも明示されていないが、上にあげた本などを参考にしたのは間違いない。「太平洋食堂」というドクトル大石が作り上げた、いまの「子ども食堂」にも通じる、アジールの世界をとてもうまく描いている。これを読んだ後、同じタイトルの演劇作品があることを知った。嶽本あゆ美(だけもと・あゆみ)作・演出の『太平洋食堂』(2013年に上演)で戯曲集もある。この劇作家がどのような構成で、大石誠之助、太平洋食堂そして新宮の町を描いているのか、とても興味がある。

さて、新村忠雄の登場だ。長野県埴科郡屋代町生まれ。そう、『大草原の夢』を書いた村山英治と同じ町の出身である。村山は同書で15ページにわたって新村忠雄のことを書いている。新村が死刑になったのが1911年(明治44)年1月、村山は翌年の1912年6月に生まれている。大逆事件がこの町を埋め尽くした悪夢のような記憶はそう簡単には消えない。事件から10年後、村山が小学校に通い出したころだ。幼友だちが「この家(新村宅)の前を通るときには鼻をつまんで、息をしてはいけない」といったことを書いている。また2、3年後に陸軍大演習の際、天皇(皇太子が名代か)がお召し列車で屋代駅を通過するので、「巡査が二人もあの家に張り込んだ」という。
それからわずか10年余の後、自らに1933年(S8)の「長野県教員赤化事件」(二・四事件)で逮捕され、1年を超える拘留の後、執行猶予の有罪判決を受け、教育現場の小学校を離れて、この屋代の町からも去らなければならない運命が来るとは、知る由もない。

新村が小学校補修科を卒業したのが、1902年(M35)、15歳のときだ。翌1903年には故郷の屋代を離れ、東京に向かっている。死刑になったのが23歳だから、このわずか9年の間に新村忠雄にはなにがあったのだろうか。

新村忠雄の生涯をスケッチしてみよう。
1887年(M20)4月26日生まれ 職業は農業、平民。長野県埴科郡屋代町百三十九番地
1893年(M26)屋代小学校入学
1897年(M30)尋常科卒業*当時義務教育は尋常科4年
その後、高等科4年、補修科1年在学
1902年(M35)補修科終了
1903年(M36)父の兄の子(従兄)の永井直治(日本キリスト教会東京浅草牧師)をたよって上京。幸徳秋水らの週刊『平民新聞』(M36年11月15日創刊)を創刊号から愛読
この年、日本メソジスト長野教会で受洗
1907年(M40)4月東京の勧業博覧会見物。初めて幸徳宅訪問(堺利彦とも会う)
同年6月 松尾卯一太、新美卯一郎ら『熊本評論』を創刊(月2回)
同年8月1日(〜10日) 社会主義夏季講習会(東京・九段下ユニヴァーサリスト教会)に参加
1908年(M41)1月 信濃社会主義教会が結成され、これに参加
*直接行動主義を唱える群馬県の社会主義者との関係を深める
同年5月15日 高崎市で遠藤友四郎、築比地仲助、茂木一次、阿部米太郎ら『東北評論』創刊。新村忠雄も参加
同年7月15日 長野市で新村忠雄ら『高原文学』発刊
同年10月20日 新村忠雄、『東北評論』第3号の編集名義人を引き受けていたため、新聞紙条例で告訴される。このため、『高原文学』第5号の編集兼発行人は新村から宮本秋露となった
新村は日暮里の知人宅、浅草教会などに居候。この間、巣鴨平民社でドクトル大石こと大石誠之助(禄亭)や『熊本評論』の松尾卯一太に会う
同年11月27日 前橋地裁、被告忠雄欠席のまま、軽禁錮2ヶ月の判決を下す
同年11月29日 前橋監獄に服役

ここまでが新村の第1ステージだ。最初の上京(1903)からわずか5年だ。屋代から長野、東京、高崎、前橋の場所を行き来する。群馬の東北評論社には頻繁に出かけている。すでに鉄道は次々と開通している。鉄道の歴史を調べてみる。
信越本線(高崎―新潟:この間の長野駅の手前に屋代駅がある)
1885年(M18)高崎〜横川開通
1888年(M21)直江津〜軽井沢開通
1893年(M26)横川〜軽井沢(碓氷峠アプト式)開通、上野〜新潟全通
両毛線
1883年(M16)新町〜本庄開通
1884年(M17)新町〜高崎〜前橋開通、前橋〜横浜つながる
1889年(M22)小山〜新前橋開通
陸路では、むかしから信州街道があり、いまの国道406号線(長野―須坂―高崎―前橋―伊勢崎)である。江戸の侠客、国定忠治が歩いた道だ。新村は警察の目を逃れて、まさかこの街道を馬車や籠あるいは歩いて通ってはいまい。もう鉄道の時代だ。新村信雄は屋代駅から列車に乗って群馬、東京に出かけている。
明治40年代の人々は,そして新村青年はどのようにしてニュース、情報を得たのだろうか。新聞、雑誌や郵便(手紙)そして電報だろう。ライブだと弁士を呼んでの演説会だろうか。勉強会や読書会を開くことや、もちろん著者や作家を直接訪ねて行って話を聞くことも多かった。もう新聞縦覧所や演歌師の力を借りる時代ではないだろう。電話はまだ十分に普及していない。もちろんラジオ放送は1925年(T14)を待たないと始まらない。
そして、鉄道に乗って移動する人々がニュースだけでなく、流言蜚語(デマ)までも運んでくる。
(この項つづく)