(106)五無斎先生を探して

[2021/1/23]

ともかくたいへんに魅力ある人物なのである。へえ、こんな人がいたのだ。しかし、いろいろ調べてみると、知らなかったのは浅学非才のわたしだけ、すでにたくさんの資料や文献が出ている。その人の名は保科百助(ほしな・ひゃくすけ)、またの号を五無斎(ごむさい)先生。そう本コラム(104)で紹介した、二川透・ふみ夫妻のお店「はじまるカフェ」(長野県北佐久郡立科町)で初めて知った保科百助のことだ。

さっそく、近くの図書館で1冊の本を借りる。井出孫六著『保科五無斎 石の狩人』(シリーズ民間日本学者 16、リブリポート、1988)。同書の巻末には保科百助(1868年[明治1]〜1944年[明治44])の年譜が付いている。これは『五無斎保科百助全集』 の年譜からの転載のようだ。井出がこのシリーズで保科百助を取り上げた理由が、本書を読んでわかった。長野県は「教育県」といわれてきたが、実は被差別部落の問題や自由のない長野の学校教育の歴史がある。井出はその実像をさぐることで、五無斎を奇人・変人扱いしてきた信州の教育界と社会の実相を描こうとしたのではないだろうか。
保科百助という人物、小百科事典の項目ふうにすれば、こんなことになる。

「保科百助(ほしな・ひゃくすけ 1868〜1911) 号は五無斎。明治時代の教育者・岩石鉱物研究家。北佐久郡横鳥村に生まれる。長野県師範学校を卒業後、10年間郷里の小学校校長を歴任。その間も、岩石採集につとめる。上水内郡大豆島小学校では、部落差別の解消と被差別部落の生活改善にもつとめた。退職後、鉱物採集に専念。苦学生のために私塾をひらく。奇行を繰り返し筆墨行商のかたわら、信濃(しなの)図書館の設立のために熱狂的に奔走。週刊新聞『信濃公論』を創刊し、授業料の全廃、学用品の公費支弁などを提唱した。1911年(明治44)、死去。享年44。」

もう一つ、おどろくのは本書が「シリーズ民間日本学者」の1冊だということだ。「民間学(みんかんがく)」とは、日本近代史家の鹿野政直(かのう・まさなお)が『近代日本の民間学』(岩波新書、1983)を出版した際に提唱した概念だ。
「民間学」は官学に対して、民間の学問という意味である。民衆的で生活的な側面を重視して自生的に成立した、柳田国男,伊波普猷,南方熊楠,柳宗悦,高群逸枝らの学問を、鹿野は「民間学」という範疇で捉え返した。
「シリーズ民間日本学者」(編集=鶴見俊輔・中山茂・松本健一)は、この「在野の学」である「民間学」の人物伝シリーズだった。しかし版元のリブロポートの解散のために、1986年から始まったこのシリーズは1995年までに42冊を刊行したところで頓挫し、残念なことに未完で終わった。『保科五無斎 石の狩人』の最終ページにある刊行予定の民間日本学者のリストを見ると、これはなかなか魅力的な企画だったことがわかる。

「在野の学」を掘り起こしてきた研究・出版の動きはかなり前からあった。まずその源流は『日本残酷物語』(全7巻、監修=宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴、編集=谷川健一、平凡社、1959〜62)ではないだろうか。そして、『ドキュメント日本人』(全10巻、編=谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎、1968〜69、学芸書林)がある。この第6巻が「アウトロウ」(解説=紀田順一郎)。ここでは諏訪の考古学者の藤森栄一が「五無斎保科百助」を執筆している。ここに登場するアウトロウは、川上音二郎、村岡伊平治、宮武外骨などなど、なかなかのメンツだ。 それから、1980年代になって「民間学」の提唱が始まることは先に書いたが、その集大成となったのが、『民間学事典』 (人名編、事項編、編=鹿野政直・鶴見俊輔・中山茂、三省堂、1997)という2巻の大部の事典だ。人名編には約1000名の民間学者が収録されている。当然、「保科百助」 (教育者・岩石鉱物研究家)の項目もあり、執筆者は平沢信康だ。

一方、長野・信州の愛すべき怪人・快人、そして郷土の誇るべき教師・石屋の五無斎先生。戦後になって、地元では数々の文献の刊行、催事が行なわれてきた。五無斎生誕50周年、100周年の節目にさまざまな記念行事があった。

最後に信州長野の近代史そして日本の近代史の中で、もう一度、五無斎の足跡をたどってみたいとわたしが夢想して作ったのが以下の年表である。かれが生きた40数年の時代、教員になってからの死ぬまでの20年、信州と日本になにが起きていたのだろうか。戦争、軍隊、郵便、学校、病院、鉄道、電信・電話、制服、靴などの洋装化・・・。こういう流れの中でもう一度、五無斎をトレースしてみたい。彼の奇行がすこしは理解できるかもしれない。

五無斎保科百助 関係年譜(赤字は保科百助関連)

1867年(慶応3)4.15 南方熊楠 和歌山城下で生まれる *1
1868年(明治1)6.8 保科百助 北佐久郡横鳥村大字山部(現・立科町)で生まれる
1872年(明治5)学制発布
1874年(明治7)自由民権運動始まる
1876年(明治9)筑摩県が長野県に編入
1879年(明治12)教育令公布
1884年(明治17)10月 秩父事件
1886年(明治19)長野県師範学校入学(18歳、4年制)
    この年、小学校令公布
1890年(明治23)11月 帝国議会開設
1891年(明治24)3月 長野県師範学校卒業
    下水内郡飯山小学校(飯山町、現・飯山市)に奉職(23歳)
1892年(明治25)6月 小県郡東塩田小学校(東塩田村、現・上田市)に転任
1893年(明治26)4月 同郡本原小学校(真田町、現・上田市)に転任

1894年(明治27)〜1895年 日清戦争
1895年(明治28)4月 同郡武石小学校(武石[たけし]村、現・上田市)に転任
1896年(明治29)4月 同校小学校校長になる
1899年(明治32)4月 上水内(かみみのち)郡大豆島(まめじま)小学校(大豆島村、現・長野市)校長(高等科併置の初代校長)に転任
1900年(明治33)10月 郷里の北佐久郡蓼科小学校(芦田村、現・立科町)校長兼蓼科実業補習学校校長に転任

    この年、第3次小学校令公布。義務教育が尋常4年に。授業料無償に
1901年(明治34)3月 「人の子を賊(そこ)なう」との退職届を提出して退職。通算在職年数、満10年
1904年(明治37)~1905年(明治38) 日露戦争
1904年(明治37)5月 長野市に私塾・保科塾を開設
1906年(明治39)8月 突如、保科塾を閉塾
        11月 狂歌集『よいかゝをほしな百首』を出版
1907年(明治40)6月 設立のため昼夜奔走した信濃教育会付属図書館(現・県立長野図書館)が開館

    この年、第5次小学校令公布。義務教育が尋常6年に
1908年(明治41)11月3日 週刊新聞『信濃公論』を創刊(〜1910年12月)
1910年(明治43)1月 『岩石鉱物新案教授法第一編』(一名『Nigiriginニギリギン式教授法』)を出版

1910年(明治43)8月 韓国併合条約
1911年(明治44)1月 大逆事件で12名に死刑執行。長野関係では新村忠雄と宮下太吉の2人
1911年(明治44)6.7 五無斎、死去。享年44。
1933年(昭和8)2月 二・四事件(いわゆる長野教員赤化事件)
1941年(昭和16)12月 南方熊楠、死去(享年74)
1967年 三石勝五郎『詩伝・保科五無斎』 (五無斎、生誕100周年にあたる)
1968年 谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎編『ドキュメント日本人』第6巻「アウトロウ」:「五無斎保科百助」(藤森栄一)、学芸書林
1981年 『長野県教育史』(第二巻 総説編二、長野県教育史刊行会)*2
1983年 鹿野政直『近代日本の民間学』(岩波新書)
1988年 村山英治『大草原の夢――近代信濃の物語』(新宿書房)*3
    井出孫六『保科五無斎 石の狩人』リブロポート(シリーズ民間日本学者)
1992年 中村一雄『信州近代の教師群像』(東京法令出版)*4
1997年 『民間学事典 人名編』(鹿野政直・鶴見俊輔・中山茂編著、三省堂)項目「保科百助」(執筆=平沢信康)
1999年 ビデオ作品『保科五無斎:君、人の子を賊うことなかれ』(カラー・39分 監修=平沢信康、演出=赤桐芳夫、ナレーション=李麗仙、紀伊国屋書店「学問と情熱」シリーズ第13巻、1999 )*5
2000年 横田順彌『明治快人伝 五無斎先生探偵帳』(インターメディア出版)小説の初出は1994〜95年 *5
2008年6月 立科町「五無斎保科百助生誕150周年記念事業」
2015年 立科町『信濃公論 復刻版』

[関係年譜]解説
*1 いろいろ調べているうちに、わたしの中で信州の保科百助と和歌山の南方熊楠のイメージが重なってくる。ふたりの研究対象はもちろん違う。しかし、南方は五無斎の1年前に生まれている。ふたりは同世代なのだ。
*2 同書の編集主任は中村一雄。同書には保科百助のへの言及が随所にある。
*3 村山英治と中村一雄は長野県師範学校の同期生(1930年[昭和5]入学)。ふたりは五無斎が死んだ翌年に生まれている。村山は師範学校卒業後、上水内郡浅川小学校(浅川村、現・長野市)に赴任する。そして、1933年2月4日、いわゆる長野教員赤化事件(二・四事件)で検挙される。21歳の時だった。村山英治はこの保科百助をどのように評価していたのだろうか?聞いてみたかった。
*4 中村一雄は本書で一章を割いて保科百助について論じている。「保科百助(五無斎)の地学と卓抜な教育の創見」がそれだ。師範学校を出て、教職は10年間、晩年までの10年間。中村論文の見出しを拾うと、わずかこの20年の時間の中を保科五無斎が全力疾走したことがわかる。
 ・信州地学の始まり
 ・岩石鉱物採集と標本の頒布
 ・新案教授法の著作
 ・人間平等の信念
 ・地域産業振興に着眼
 ・信濃図書館設立の奔走と博物館の提唱
 ・私立保科塾の解説
 ・週刊新聞『信濃公論』の発行
*5 保科五無斎、こんな面白いキャラクターなら、もっと映画や演劇、ドラマや漫画に登場してもいいはず。これは未見だが、ビデオ作品(後にDVD)39分のドキュメンタリーだ。
*6 図書館にあったので、借り出してみた。銀座の英字新聞社を舞台に五無斎先生が名(迷)探偵ぶりを発揮する文明開化小説だ。五無斎の狂歌を絡め、明治中期の演歌、オッペペケー節、ノンキ節を出す・・・。おもしろい芝居ができないものだろうか。

参考サイト
・立科町図書館 保科百助関係蔵書
https://www.town.tateshina.nagano.jp/0000000238.html

・「長野の怪人・保科五無斎」
https://note.com/roatu/n/n651e9d0982c9