(79)声なき声の会
[2020/7/10]

小冊子『想像』(16p、想像発行所、169号、2020.7.1)が送られて来た。この中に羽生康二さんの文章、〈「声なき声の会」と小林トミさん〉が収録されている。ここから『声なき声を聞け』(小林トミ著、岩垂弘編、同時代社、2003)という本があることを知った。

1960年(昭和35)1月、日米政府は新安保条約に調印。5月20日には、衆議院で強行採決された。新安保条約に多くの労働者・学生たちが反対運動を繰り広げ、それに新聞などのマスコミ、文化人もこれに同調して安保に反対していた。この動きに対して、岸信介首相は5月28日の記者会見でこう強弁したそうだ。「いまあるのは『声ある声』だけだ。私はほんとうの国民の声、『声なき声』にも耳を傾けなければいけないと思う」
この岸の発言を逆手にとって、「声なき声」の国民も安保反対の声をあげているということを訴えようと生まれたのが「声なき声の会」だ。政党にも労働組合にも全学連にも関係のない、一般市民の安保反対の意思を示すデモを計画したのだ。しかし、1960年6月4日のデモの日、約束の集合時間の正午までにやって来たのは、小林トミと不破三雄の二人だけだった。二人は思想の科学研究会の傘下サークル「主観の会」のメンバーだった。
トミさんと不破さんは、安保改定阻止国民会議の統一デモの最後につき、「総選挙をやれ!! U2機かえれ!! 誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいりください」と書いた横断幕をひろげて、虎ノ門から国会議事堂に向けて歩いた。このとき、道の両側から二人のデモを見ていた青年、学生、主婦、商店主などの一般市民が次々とその後ろについて歩き、隊列は300人以上に膨れあがった。「声なき声の会」が誕生したのだ。「声なき声の会」のデモはその後、6月11日、15日、18日、22日そして7月2日にも行なわれた。集会も2回開いた。6月15日、トミさんはひとりの女子学生の死をデモ解散後の東京駅で知った。そして6月19日、新安保は自然成立した。


デモ行進する「声なき声の会」のメンバー。右端が小林トミ

その後、7月15日には機関誌『声なき声のたより』を創刊した。表紙絵は画家で中学・高校の美術の非常勤講師だったトミさんがずっと担当した。創刊号の部数は3500にもなったという。
トミさんは当時30歳だった。「声なき声の会」の代表世話人となり会の継続に力を注ぐ。「声なき声の会」は1961年から毎年6・15集会を開き、樺美智子(かんば・みちこ)さんが亡くなった国会南通用門に花束をささげてきた。この「声なき声の会」は1965年4月の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)発足の母胎にもなった。ベ平連の38人の呼びかけ人にトミさんも加わった。このベ平連が1974年1月に解散しても「声なき声の会」はそのまま残り、機関誌『声なき声のたより』を出し続け、毎年6・15集会を開き、献花を行なってきた。
小林トミさんは2003年1月に亡くなる。72歳だった。それから17年がたった今も、約束の「声なき声の会」の活動は続いている。しかし2020年6月15日の集会は新型コロナの影響で、60年目にして初めて中止となったが、樺美智子さんへの献花だけは行なったという。

1960年6月4日にトミさんと一緒に「声なき声の会」の初めてのデモをした映画助監督の不破三雄さんとはどんな人なのだろうか、少し調べてみた。『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976)には、「不破三雄(ふわ みつお)」の項目がある。1930年、神戸生まれ。1954年に京都大学文学部哲学科を卒業、松竹大船撮影所助監督部に入社とある。山田洋次監督デビュー作『二階の他人』(61)で助監督、また山田作品『下町の太陽』(63)でチーフ助監督、脚本にも参加、さらに同じく山田作品の『馬鹿まるだし』(64)でチーフ助監督。そして『ケチまるだし』(64)で監督デビュー。その後、病気のため休養し、66年に松竹を退社、関西に戻っている。家族の方によれば、8年ほど前に亡くなっているとのことだ。

鶴見俊輔さんの『悼詞(とうし)』(SURE)が7月1日に増刷された。通算7刷目で初版は2008年。これは、125人の知人・友人に贈った、鶴見俊輔全追悼文集である。
この中に、「小林トミ―「声なき声の会」世話人」と題した追悼文がある。

一度、トミさんがその本領を発揮したことがありました。声なき声の中から、死を決して権力と対決しようという声があがって、声なき声の大部分がその声についていったときです。トミさんは、自分はひとりになっても、普通にできることを守るといって、さっさと家にかえってしまいました。そしてその時をこえて、もとの運動の形をつづけました。 戦争はいやだという、普通の人が誰でも感じていること、それを誰にでもできる形であらわしつづける。それがトミさんの呼びかけです。

参考資料:
*『「声なき声」を聞け 反戦市民運動の原点』(小林トミ著、岩垂弘編、同時代社、2003)
本書はトミさんが書きためた原稿(400字詰めで1240枚)を編者がまとめたもの。岩垂は「あとがき」で次のように書く。

小林さんの活動は三つの点で傑出していたと私は考える。まず、その活動が他から命令されたり指示されたものでなくあくまでも自発性に基づいたものであった点。第二は口舌の徒でなく、必ず行動を伴ったものであった点、第三は長く継続する活動であった点だ。
それに、小林さんは、人間としての日常生活を大事にした。別な言い方をするならば、日常生活の一部として反戦平和運動を続けてきた。このことも、特筆に値する。

三栄町路地裏だよりvol.33[2002/01/11]
三栄町路地裏だよりvol.48 [2003/01/12]
*菅原和子「声なき声の会」の思想と行動――戦後市民運動の原点をさぐる