(99)新刊『狸の腹鼓』の中からブン、ブン、ブンと音がする

[2020/11/28]

いよいよ今週末には、宇江敏勝さんの新刊、『狸の腹鼓』のすべての製本工程が終わり、12月4日頃に書店に並ぶ予定となった。2011年から1年に1冊を刊行、10年の歳月をかけた出版である。あらためて、宇江さんの熱意と努力に敬意を表する。
『狸の腹鼓』には4つの作品、『牛車とスペイン風邪』『乞食』『山神の夜太鼓』、そして表題作の『狸の腹鼓』が収録されている。いずれも書き下ろしで、文芸同人誌『VIKING』に掲載された(2020年5月〜10月)作品である。

宇江敏勝さんの文学人生を辿っていく際に、さまざまな人が登場する。これから、少しずつ、宇江さんにお聞きしながら、その人々のことを記していきたい。今回は、杉中浩一郎さんについて取り上げてみる。
杉中浩一郎さんは、昨年の2019年3月2日に亡くなられている。享年96だった。杉中さんは熊野の歴史・民俗の研究者として優れた仕事を残されている。主なものをとして、以下のような著作がある。
『熊野の民俗』私家版、1951年
『紀南雑考』中央公論事業出版、1981年
『熊野の民俗と歴史』清文堂出版、1988年
『南紀熊野の諸相:古道・民俗・文化』清文堂出版、2012年
『南紀・史的随筆』私家版、2015年
また『角川日本地名大辞典』第30巻、和歌山県(角川書店、1985年)では「執筆者・協力者」として関わっている。
杉中さんは1922年(大正11)に和歌山県西牟婁郡近野村近露(その後、西牟婁郡中辺路町近露、現・田辺市中辺路町近露)に生まれ、慶應義塾大学在学中に学徒出陣。南洋戦線から帰国。敗戦後郷里で中学校教師となった。この中学校とは、当時の西牟婁郡中辺路町にあった近野中学校のことである。
『日没国(にちぼつこく)通信』第8号(1984・7・10)は、『山の木のひとりごと——わたしの民俗誌』が1984年7月15日に刊行された際に、投げ込まれた月報である。前年の1983年には、新宿書房にとって最初の宇江さんの本、『山に棲むなり——山村生活譜』が出ているので、この本は2冊目の宇江さんの本である。

この『山の木のひとりごと』がその後、1995年にA5判(188ミリ×210ミリ、愛蔵版と俗にいわれたサイズ)を四六判(188ミリ×148ミリ)に判型を変え(版面はそのまま使えた)、本文も大幅に増補し、題名も『樹木と生きる——山びとの民俗誌』として再刊した。そして同書は2001年に「第1期 宇江敏勝の本 5」として同じタイトルで衣替えして刊行したことは、前のコラムで紹介した。
さて、『山の木のひとりごと』(1984)に投げ込まれた月報の話に戻ろう。杉中浩一郎さんがこの月報に寄稿した文(「宇江敏勝氏のこと」)をいまあらためても読み直す。杉中さんは当時、田辺市立図書館長だった。その一部を紹介しよう。

「昭和二十五年(1950)に私は郷里の熊野の山村で中学校の教師になり、新入生のクラスを担任することになった。53名のクラスにはしっかりした男女がそろっていたが、そのなかに小柄で負けん気の強い少年がいた。それがいま“山の作家”といわれている宇江敏勝氏であった。彼とはそれ以来交渉をもっているので、すでに三十数年のつき合いである。
中学時代の彼は、やはり山の生活を作文にすることが珍しくなかった。幼児期を過ごした四滝とか宇井郷とかいう熊野山中の地名も、その作文の内容に結びついて私の心に残った。当時『山びこ学校』の本が評判になったが、彼の作文もなかなか個性的であった。「ガマになった父」という題で、風変わりな作文を書いたことがあった。彼の父はかっぷくのいいベテランの炭焼きで、弁の立つ人でもあったが、山中で見かけたガマを自分の父の化身だと空想して、それを文章につづってきたのである。(中略)
山で働くようになってからのことは、『山びとの記』に詳しく記されているし、里での近年の生活などは『山に棲むなり』をみればわかる。ある程度彼のことや地域の様子を知っている私などからみて、彼の書いたものは飾り気がなく、ありのままの体験や見聞がそれとない批判やユーモアを交えて、巧みな筆運びでつづられているように思う。(後略)

そうなのです。宇江さんが1950年に近野中学校にした時のクラスの担任が杉中浩一郎先生だったのだ。それ以来、杉中先生は70年を超える宇江さんにとって終生の師であった。杉中先生の影の存在(プレゼンス)というものを、新刊の『狸の腹鼓』の4つの小説からも、感じ取る読者がいるに違いない。

『熊野誌』第65号では、宇江さんが杉中先生への追悼文を書いている。
昨年の『牛鬼の滝』、そし今年の『狸の腹鼓』を、杉中先生にぜひ読んでいただきたかった。