(113)小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか

[2021/3/13]

3月8日の朝刊各紙に小沢信男(1927〜2021)さんの訃報が載った。3月3日に亡くなられ、葬儀・告別式は家族で行なったとある。享年93。
小沢さんとは編集・装丁家・田村義也(1923〜2003)さんと、組版職人・編集者の前田年昭さんのおふたりを介して、お付き合いをさせていただいた。
田村義也さんが亡くなったのが、2003年2月23日。この田村さんを偲んで、編集・出版・印刷・製本などの関係者がその年の12月に1冊の追悼集を出した。
田村義也 編集現場115人の回想
(編集・発行=田村義也追悼集刊行会、非売品)

その115人の中に小沢信男さんがおられる。小沢さんは「下町スナップ——田村さんと」を書いている。『酒文化研究』という雑誌(発行=酒文化研究所、発売=新宿書房)があった。同誌の編集長の田村義也さんから「東京下町の泡盛事情をしらべろとご下命いただき、深川・浅草あたりの泡盛酒場や問屋をたずね歩きました」 という。なんでも戦前の最盛期には沖縄の泡盛生産高の5割余を本土に売出し、東京では本所深川が本場だったという。同誌第3号(1993年10月)に掲載されている報告エッセイ「下町に泡盛を訪ねて——深川浅草泡盛酒場探訪記」がそれだ。原稿提出の後、小沢さんは田村編集長を連れて、取材した酒場を二、三案内したという。
この回想集のエッセイで小沢さんは、田村さんとの最初の出会い(仕事)は、自分の本『書生と車夫の東京』(作品社、1986 編集者=増子信一)の装丁をお願いした時であると記し、好きな田村義也装丁本の3冊あげろとの質問で、その1冊にこれまた自分の『東京百景』(河出書房新社、1989 編集者=福島紀幸)をあげている。
田村義也さんは2冊の本を残されている。『のの字ものがたり』(朝日新聞社、1996年)と、亡くなられたあとに編集された『ゆの字ものがたり——ぜんぶ本のはなし!』(新宿書房、2007)だ。その『のの字ものがたり』の中で、装丁をされた小沢さんの2冊の本、『書生と車夫の東京』と『東京百景』の造本裏話を書いている。小沢さんと田村さん。年齢も近いし、生まれも下町と山手との違いはあるものの東京育ち、おふたりは気があったのだろう。

もう一人の縁者は、組版職人・編集者の前田年昭さんだ。あるとき、前田さんからこんな原稿がある、なんとか出版できないものかとの相談を受けた。出来上がった本が、『釜ヶ崎語彙集1972−1973』:(寺島珠雄編著、新宿書房、2013年) だ。1972〜1973年当時、日雇労働者2万人の活気であふれていた大阪・西成区の釜ヶ崎。熟練した土工、鉄筋工でもあった詩人・寺島珠雄(1925〜1999)らの透徹した人間観察が生みおとしたのが本書で、まさに非正規労働者版『釜ヶ崎事典』である。
しかし、寺島さんらによって完成した原稿は、その後ずっと出版の機会もなく40年間眠っていた。「内容はいい、しかし売れないよ」この40年、何人の編集者がそう呟いてきただろうか。編集の前田さん、組版・デザインの赤崎正一さん(おふたりとも神戸芸術工科大学の教員でもあった)から、熱心な相談を受け、「寺島珠雄編著『釜ヶ崎語彙集』刊行会」を立ち上げる。およそ80名あまりの方々のご支援で本書は刊行できた(p302〜p303)。実のところカンパをしてくれたほとんどが、私の家族や友人だった。口の悪いヤカラは「まるで村山、おまえの生前葬出版だよな」と言った。閑話休題…。
本書は仕事・食住衣など243項目、800余の索引項目、釜ヶ崎今昔絵地図、年表、写真によって、あの時代の釜ヶ崎を生き生きとよみがえらせたのである。
この『釜ヶ崎語彙集1972−1973』に、なんと小沢信男さんは深くかかわっていたのである。この元原稿の一部が、1973年2月号と5月号の『新日本文学』に掲載された。その時の編集長が小沢信男さんだったのだ。小沢さんには前田さんの紹介でお会いし、『釜ヶ崎語彙集1972−1973』への原稿を依頼した。それは「ふしぎの書・ふしぎの人」という長い跋文(というかむしろ解題)として掲載(p268〜281)された。
小沢さんは1953年に新日本文学会に入会している。この1年前の1952年に新日文の事務局に入ったのが、小林祥一郎さん(1928〜)だ。小林さんには『死ぬまで編集者気分——新日本文学会・平凡社・マイクロソフト』(2012、新宿書房)という著書があり、当然小沢さんも登場している。小林さんは平凡社勤務のかたわら(!)、1966年から67年にかけて、『新日本文学』の編集長を務めている。
すると、小林さんから電話があった。「小沢さんの葬儀にはご家族の願いもあって行けなかった」と。今年の5月で93歳になる小林さんは、すこぶるお元気で安心した。

わが友好出版社のSURE は、作家の黒川創さんら家族、妹などでやっている出版社だ。ここから出た本に『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(小沢信男・津野海太郎・黒川創共著、2011) がある。津野海太郎さんは1962年に新日文の事務局に入り、そこの編集者となっている。新日文では、小林祥一郎さん、小沢信男さんの後輩にあたる。タイトル通り、新日文だけでは食えないため、いろいろアルバイトでつないできたようだ。そのひとつが、上野のれん会の雑誌『うえの』 の編集仕事だ。1959年の創刊から関わった。アルバイトで始まり、嘱託、顧問と亡くなる直前までずっと仕事をしてきた。
黒川創さんに、「小沢信男さんが亡くなったね」とメールをする。彼からはつい最近、新刊小説『ウィーン近郊』(新潮社)をいただいたばかりだ。
すぐに返事がきた。
「土曜夜、入谷の葬儀屋で、津野さんと一緒に、小沢さんにお別れをしてきました。
今日発売の『本の雑誌』が津野海太郎特集で、われわれゆかりの者たちが寄稿しているのですが、小沢さんも原稿を送ってから逝かれたようです。だから、これが遺稿でしょう。」

さっそく、近くの本屋で『本の雑誌』(4月号)を買う。特集は「津野海太郎の眼力」。津野さんを知る、13人がこれに寄稿している。そのひとり、小沢信男さんは「津野海太郎と新日本文学会」と題するエッセイを書いていた。

参考サイト:
*小沢信男さんはMacユーザーだ
https://www.shigoto-ryokou.com/article/detail/348
https://www.shigoto-ryokou.com/article/detail/349
https://www.gentosha.jp/article/2245/

*タウン誌『うえの』より前、1955年1月に『銀座百点』が創刊されている。タイトル文字・表紙絵=佐野繁次郎で、これはタウン誌の先駆けである。
http://www.hyakuten.or.jp/syoukai/syoukai.html
http://www.hyakuten.or.jp/hyosi/