(110)熊野灘に面した町と村から

[2021/2/18]

知り合いからの勧めで、NHKTVのドキュメンタリー『せんせい!おかげで生きとられるわ〜熊野灘・町の診療所に冬日記〜』(2月11日10時05分〜55分) をみる。サブタイトルには「新型コロナに揺れた冬、小さな診療所で繰り広げられた日々を追う」とある。
番宣にはこのような説明がなされている。

「三重県熊野市二木島町は、230人の町民の7割が65歳以上の高齢者。この町に、小さな診療所がある。医師の平谷一人は、24時間呼び出しを受ける携帯電話を肌身離さず持ち歩く。午前中はジジババの愚痴に耳を傾け、午後は往診、週に2回は山間部の無医地区へ出張診察。いつもどこでも待っている人がいる。新型コロナに揺れた冬、日本の片隅で繰り広げられた「せんせい」とお年寄りのゆるやかな、そしてときに緊迫の日々を描く。

どこにもある日本列島の現実の縮図だ。人口減少、高齢化、きびしい地方医療の現状……。ただ救われるのは、診療所の医師やスタッフの明るさ、そして患者たちの屈託ない笑顔だ。
熊野灘の波静かな入江の町にある小さな診療所・熊野市立荒坂診療所 、ここの平谷一人(ひらたに・かずひと)医師。この診療所の4代目の所長であり、勤続22年目となる。平谷医師は熊野市出身で長崎大学医学部を卒業後、宮崎県の総合病院の副医院長だった50歳の時、地元の求めでここにやってきたという。診療所のスタッフは平谷医師ほか、看護師が2人、事務が1人の合計4人だ。1階が診療所で2階は平谷医師夫妻の住まいになっている。
熊野灘の海側から診療所を捉えた画面には、大きな移動式防波堤が映っていて、そのすぐ目の前にこの荒坂診療所が建っていることがわかる。このリアス式海岸の熊野地方は宝永、安政の地震、東南海地震(1944)と何回も大きな津波の被害を受けており、近い将来、紀伊半島沖大地震が起きることも予想されている。
荒坂診療所の夕方。診療が終わり、スタッフたちが帰った後、平谷医師は電気を消して真っ暗になった階段をあがり、2階の自宅に戻る。「意味性認知症」を患う妻が、コタツに入って帰りを待っている。平谷さんは料理ができなくなった妻にかわって毎日台所に立つ。医者から主夫になるのだ。今晩のおかずは冷凍のハンバーグ。「これ、うまいんや」と袋から2つ出してフライパンに投げ込む。
荒坂診療所が所属する「紀南医師会」。熊野市立の診療所は荒坂を入れて5ヶ所ある。他に紀南医師会のメンバーでない診療所も4ヶ所あるようだ。その中の「へき地診療所」という言葉に胸が痛い。

荒坂診療所がある、ここ熊野市二木島町(にぎしま・ちょう)。奥深い入江にある漁村と林業の町。かつて海の道として、熊野灘を行き交う船舶の要所として栄え、地形を活かした風待港(かぜまちこう)でもあった。鉄道が開通するまでは、木本町(現・熊野市)まで巡航船が運航されていた。また、かつてはこの地方各港で盛んだった捕鯨の基地のひとつでもあった。町には寛文年間の鯨塚(鯨の供養塔)もある。 二木島町にはいくつもの山の道もある。まず、熊野古道伊勢路が北側の山を横切っている。また国道311号線(海側)と国道42号線(山側)があり、高速道路は「近畿自動車道紀勢線」だ。しかし、高速道は新宮南〜新宮北、紀宝〜熊野の未開通区間20キロがあって全通してはいない。
そして鉄路の紀勢(きせい)本線。最寄り駅は二木島駅である。紀勢東線と西線がつながり、紀勢本線(亀山〜和歌山市)として全通したのは1959年(昭和34)7月15日のことであり、二木島駅はその時の開業だ。5年前の1954年に、三重県南牟婁郡の木本(きもと)町と荒坂村、新鹿(あたしか)村、泊(とまり)村など7村が合併し「熊野市」となる。さらに2005年、紀和町とも合体して今の熊野市となる。熊野市内には紀勢本線の駅が5つある。紀伊木本駅、大泊(おおどまり)駅、波田須(はだす)駅、新鹿駅であった。紀伊木本駅は全通の際に熊野市駅と改称した。
かつて木本の町は、紀州藩の時代には代官所が置かれ、東紀州の政治・商業の中心地であった。「熊野」は和歌山県西牟婁郡から三重県北牟婁郡にかけての総称、旧国名であった。

熊野灘に面する漁村には「イタダキ(持ち)」という運搬の労働習俗があった。頭上に物を載せて運ぶことである。頭上運搬の風習は世界各地、日本各地で見られるが、ここ熊野地方でも古くは行われていた。特に三重県南牟婁郡泊村古泊(こどまり)の女性たちは魚だけでなくあらゆる荷物を運んだ。そして海岸だけでなく山林の現場にも「イタダキの女たち」は出稼ぎに向かった。山の作家、宇江敏勝さんはこれを見逃していない。『熊野草紙』(草思社、1990)には、「イタダキ」という文があり、そこでは昭和22年(1957)ごろ、果無山脈の山中で若い娘ばかりが、杉の木の皮を山から林道までイタダキの方法で降ろしたという話を古老から聞いたと記している。また中学校の恩師・杉中浩一郎先生の研究論文「古泊の女たち」もここで紹介している。彼女たちは6、7歳のころから頭にワを載せて、イタダキのけいこをし、各地に出稼ぎに行ったという。田植え、山刈り、沖士、土木作業、木材や木炭の運搬などなど。なんと長くて太い丸太も頭に載せて運んだという。

ここで、宇江さんの愛読者なら、ハタと思い当たる作品があるだろう。「民俗伝奇小説集」の第7弾『熊野木遣節』(2017)だ。ここには「いただきの女たち」が収録されている。場所は和歌山と奈良の県境は果無山脈のふもと。山仕事の男たちの泊まる山小屋に、ある日働き手の5人の若い女たちがやってくる。女たちは杉皮三束を紐でたばね、頭に載せて谷から里へ下っていく。女たちは三重県南牟婁郡泊村古泊(こどまり、現・熊野市磯崎町)から来ていた。女たちはこの山の仕事が終わると、紀伊木本駅まで汽車に乗り、そこからふるさとの古泊までは一時間かけて歩いて帰るという。そして今度は近くの鉄道工事の現場で、セメント袋やケンチ(積石)を頭に載せて働くという。まだ大泊駅もできていない時代のはなしだ。


『熊野木遣節』目次見開き(ここに熊野の「いただき」風景の写真が収録されている)


熊野古道センター(尾鷲市)企画展から

あの荒坂診療所で診察を受けた90過ぎのババ。ひょっとしたら彼女はむかし、イタダキをしていたのかもしれない。