(126)1冊の本を遺していった……

[2021/6/12]

『聖人伝 プロティノスの彼方へ』(立木鷹志、港の人、2021年4月20日)

鎌倉にある版元「港の人」の上野勇治さんから送られてきた。『聖人伝』は四六判上製角背・グラシン巻き・貼り函入り・本文576頁、定価5000円(税別)という大著である。書容設計は白井敬成事務所、印刷製本はシナノ印刷だ。


表紙・表〈ヒエロニムス・ボス作『快楽の園』(1503〜4頃)の部分〉

実はこの『聖人伝』の刊行までには、わたし(新宿書房)も少しかかわった経緯がある。
著者の立木鷹志(たちき・たかし、本名・川口憲市)はわたしの大学時代の友人だ。かれは途中で大学を去り、久しぶりに会ったのは、わたしが新宿書房を引き継いだ1981年ごろだろうか。当時、何百人ものフリーの校正者が所属する集団があった。川口はその校正グループの一人だった。多くのメンバーは大学闘争を経験し、ドロップアウトした人たちだった。九段南で再出発した新宿書房の事務所に室野井洋子さんが新人編集者としてやってきた。彼女もその校正者集団にいたこともあり、川口ともすでに面識があった。そんなこともあって、ある日、川口が大部の小説の原稿を抱えて事務所にやってきた。それが1983年11月に出版した『虚霊…Spiritual existence』という本だ。菊判上製角背・グラシン巻き・貼り函入り・本文656頁という大著だ。造本は中垣信夫、写真は川田喜久治、編集は室野井洋子(1958〜2017)、印刷は理想社印刷所(現・理想社)、製本は松岳社青木製本所(現・松岳社)のスッタフ陣だ。しかも本文の天・地・小口とも青いインクが吹き付けられている(いわゆる小口染め、小口装飾)。


箱・表帯付き

書名から想像できるように、『虚霊』は、埴谷雄高(はにや・ゆたか 1909〜97)の『死霊』をオマージュした作品で、刊行後、ふたりでこの本を持って吉祥寺駅の南にあった埴谷さんの小さな家を訪ねた。すでに独り住まいだったのか、埴谷さんは自ら紅茶を出してくれ、立木の初めての本の出版をほんとうに喜んでくれた。それから立木は埴谷さんとは、長い付き合いがあったようだ。
その後、川口は校正者として仕事を重ね、また同時に作家・翻訳家「立木鷹志」として、さまざまな小説本、翻訳本を出してきた。
昨年の2020年の秋だったろうか、川口から久しぶりに電話があった。実は読んでもらいたい原稿があり、できるならお宅で出してほしいと。10月21日に分厚い封筒が届いた。400字詰め1000枚もあるという。その中に彼の手紙が入っていた。
「前略 五、六年かけて書き上げた『聖人伝』の原稿をお送りします。途中、体の変調を感じたのですが、書き上げる迄はと病院にも行かなかったことで悪化したようです。 11月から国立・・・・病院に入院の予定です。
時節柄、直接会うのも難しいので、とりあえず原稿を先にお送りしておきます。新宿書房での出版が難しければ、内容からして齟齬のないような出版社を紹介していただければと思います。よろしくお願いします。 川口憲市」
その後、何回か電話でのやり取りがあった。10年、20年もこの本を大切に売ってくれる版元……。いろいろ考えて、付き合いの長い「港の人」の上野勇治さんを推薦した。川口も「港の人」の出版物を調べて、納得してくれた。早速、上野さんに連絡して、プリント、テキストを転送する。上野さんも出版を了承してくれ、著者にも直接何回か会ってくれた。あとはふたりにまかせよう。出版は2021年の春を目指そうということになったようだ。一つには川口の病状のこともあった。事がうまく進んだ12月のある日、川口はお礼を言いたいと九段下まで来てくれた。近くのホテルの喫茶室で会った彼は元気そうで、赤ワインを注文した。
それにしても上野さんは、この難しい本を、しかもこの短期間によく仕上げてくれたものだ。本人が大校正者でもあるとはいえ、大変な編集作業だったろう。2021年3月の半ばには上野さんから、4月7日に病院へ見本を届けられるところまできた、との連絡があった。そしてその7日、新宿書房の事務所に「港の人」から見本が1冊届いた。上野さんからは、当日7日に病院へ見本を届け、著者ご本人にその仕上がりを大変喜んでいただきましたとの報告もあった。
しかし、立木鷹志(川口憲市)は4月12日の夜に亡くなった。享年74だった。彼が最後まで所属した聚珍社が会員宛に出した「訃報」によれば、「2020年4月に検査で大腸がんであることが判明し12月に手術、その後ご自宅近くの病院に移られ、一時入院、通院というかたちで闘病を続けられていました」とあった。亡くなった翌日、奥様から「最初の本、最後の本、どちらともお世話になりました」とお電話をいただいた。
5月に入り「港の人」から、また『聖人伝』が送られてきた。著者からの恵贈ということだった。どこまでも用意のいい川口だ。同封されていた上野さんの手紙だ。

4月7日に見本届け、見本了承。製本作業開始。12日著者死亡。製本・貼り函の制作は時間がかかり、完成は5月17日だったという。配本はJRCの一手扱いで全国の書店、オンライン書店で発売されている。
5月27日の『毎日新聞』の一面下のサンヤツ広告に『聖人伝』がでた。どうか、書評・紹介がいろいろ出るようにと祈る。

最近、立木鷹志のブログを発見した。
「立木鷹志の随想記」の最後の更新はなんと2021年1月7日ではないか。最後まで頑張っていたんだな。彼の仕事仲間で聚珍社の訃報を書いた方から電話をいただき、このブログのことをお話ししたら、立木鷹志はエッセイ集の原稿も用意していたんです、とおっしゃった。

川口憲市、立木鷹志さん、お疲れさまでした。見事な幕引きです。