(59)三省の樹
[2020/2/21]

17日の晩、東京・荻窪四面道近くの「本屋Title」に寄る。本屋さんの2階ギャラリーで「詩人・山尾三省展〜詩集・原稿・写真、そして画家nakabanの装画」(2020.2.11-2.27)が開かれているからだ。
今回は山尾三省詩集『新版 びろう葉帽子の下で』(装画=nakaban、野草社)の刊行を記念した展示だ。
会場には山尾三省(やまお・さんせい1938〜2001)さんの全著作63冊をはじめ、高野建三さんが撮影した写真、亡くなる直前の直筆原稿などがあった。もちろん新宿書房の本、『縄文杉の木蔭にて』(1985)、増補新版『縄文杉の木蔭にて』(1994)そして『回帰する月々の記』(1990)、の3冊も。

  

山尾さんの詩「水が流れている」を想い出す。  水が流れている
 暗闇の中で
 水が流れている
 なむなみだ・・・ぶつ
 なみだぶつ
 暗闇の中で
 水が流れている
 水が
 真実に 流れている
(増補新版『縄文杉の木蔭にて 屋久杉通信』より)

山尾さんについては、かつて「三栄町路地裏だより」で何回か書いたことがある
山尾さんが亡くなった2001年の12月に発行された、屋久島の季刊誌『生命の島』第58号は「山尾三省追想特集」となった。同号に寄稿した拙文をここに再録する。

屋久島までの物語

 三省さんの本を三冊作らせてもらった。正確にいうと二冊で、そのうちの一冊は増補新版の合計三冊である。最初は1985年の『縄文杉の木蔭にて』(装丁・鈴木一誌、挿絵・山尾順子、写真・日下田紀三)、次に1990年の『回帰する月々の記』(装丁・鈴木一誌、写真・山下大明)、そして1994年の『縄文杉の木蔭にて』(増補新版。装丁・吉田カツヨ、挿絵・山尾順子、写真・大橋弘)である。
 私どもの力不足でどれも申しわけない程度しか売れなくて、三省さんや屋久島の自宅にある山尾書店には迷惑をかけっぱなしだった。なにしろ、最初の『縄文杉の木蔭にて』の初版3000部を全部売り切るのに、9年もかかった。それでようやく増補新版を出すことができたのである。
 1984年頃だったろうか。西荻窪にあったプラサード書店でのことだ。プラサード書店は山尾さんの最初の本『聖老人―百姓・詩人・信仰者として』を81年に刊行していた。店主のキコリさんのそのころの連れ合いに、三省さんの本を出すことで意見を聞いたことがある。まだ、三省さんが本を三冊ぐらいしか出していないときだった。「少し、繰り返しが多いね」と生意気な意見の私に対して、彼女は「三省さんの本なら、なんでもいいのよ。みんな、どれも読みたいのよ」と言う。たしかに卓見だ。すでに山尾さんの本の力を見抜いている。そして、彼女はどんなことがあっても三省さんの本を出しなさいと、強く勧めるのだった。
 足が遅いが、しかし、三省さんの本はほんとうに息が長い。毎月、毎年、ずっと絶えることなく注文がある。いつの間にか、在庫が減っている、出版社にとって、実に不思議な著者なのである。いまは一年いや半年で本の運命は決まる。動かない本はテコでも動かなくなる。三省さんは短期的に考える編集者や出版社には向かない著者かもしれない。しかし、三省さんの本は、これからますますゆっくりだが、絶えることなく読み継がれていくに違いない。
 いま三省さんのことで一番知りたいことは、1977年に屋久島に来るまでの個人史および家族史だ。60年に大学を中退して、67年にコミューンの「部族」 にかかわりはじめるころのこと。ナナオ・サカキやゲーリー・スナイダーとの出会い、凮月堂での日々。もちろんこの雑誌(『生命の島』)には詳細な三省さんの年譜が掲載されるだろうから、おおよそのことはわかるだろう。
 『縄文杉の木蔭にて』には、60年安保全学連委員長の唐牛(かろうじ)健太郎が1984年3月に47歳で死んだ時のことが書かれている(「桃の花」)。強い衝撃と深い悲しみに打たれて、三省さんは茫然とした日々を過ごす。ある晩、赤フンと呼んだ唐牛を見送るため深夜、家族が寝静まったころ、焼酎とつまみをだして、ひとりゆっくりと飲みはじめる。そして、酔うにつれ唐牛も三省さんも大好きな高倉健の『網走番外地』を一番から四番までゆっくりと二度唄うのだ。涙がとめどなく流れる。
 唐牛健太郎と三省さんとはどのような知り合いだったのだろうか。編集の際に三省さんに聞くのを忘れた。先日、図書館で島成郎の『ブンド私史』(批評社)と『唐牛健太郎追想集』(同刊行会)を借りて、ざっと読んでみても三省さんの名前はでてこない。唐牛は32歳の1969年4月に鹿児島から与論島に向かう。そこで三省と出会う。そして次の年の6月、安保闘争10年目を迎えて、翌7月には与論島を離れる。どこかに二人をつなぐ糸がある。安保世代の多くが市民社会に復帰したなかで、25年以上にわたって彷徨してきた、北海道が産んだ輝く全学連委員長と屋久島の農業詩人・三省さんとのつながり。
 唐牛健太郎の寂しさをいちばん理解していたのは、三省さんではないだろうか。屋久島までの物語を知るために、だれかがいつかは書く、その三省さんの評伝を早く読みたい。

新宿書房の最新刊は岡村幸宣さんの『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』(造本=杉山さゆり)だ。今日(2/19)、見本が出来てきた!
書名にある「作業日誌」は、ドイツの詩人・劇作家のベルトルト・ブレヒト(1898-1956)の日誌形式のエッセイ集『ブレヒト作業日誌1938-1941』や、このブレヒトを愛してやまなかったわが編集の師、松本昌次さん(1927-2019)の著作『ある編集者の作業日誌』(1979、日本エディタースクール出版部)から、このネーミングを拝借している。
岡村さんの日誌は2011年の3月11日からはじまっている。実は、この本はもっと早く出る予定が遅れに遅れたのだ。しかしその効用?か、発売日が〈3・11〉に近くなり、本書にふさわしい時期になった。

ところで、この新刊のなかに若いアーティストの手塚太加丸(てづか・たかまる)という青年が登場する。日誌では、2016年2月3日の東松山だ。ちょうど始まったばかりの丸木美術館の企画展「私戦と風景」の出品作家のひとりで、《土を掘って、土地を見て、場になる》という「作品」の一環として、真冬の美術館の奥にある雑木林の中に小屋(作品)を建てて暮らす。そして美術館の展示室に床をはり、部屋の中央に巨木を立てた。
この太加丸さんのご両親(手塚賢至・田津子)は美学校の初期の生徒で画家である。二人は山尾三省の呼びかけで埼玉の入間から屋久島の一湊(いっそう)の白川山(しらこやま)という廃村に移住する。太加丸さんは7人兄弟の末っ子として屋久島で生まれた。
父親の手塚賢至さんは、いま「山尾三省記念会」の会長をしている。季刊誌『生命の島』の「山尾三省追想特集」をあらためて見たら、「三省の樹」という画が掲載されていた。三省の樹から実生(みしょう)で育ち、太加丸さんのような若い木になっていくのを見るのは本当にうれしい。


画=手塚賢至