(91)済州島から続くチャムスの海の道
[2020/10/2]

当コラム(48)[2019/11/29]で金栄・梁澄子著『海を渡った朝鮮人海女―房総のチャムスを訪ねて』(1988)のことを紹介した。在日の若い女性ふたりが『海女たち四季―白間津・房総半島のむらから』(1983)からインスパイアされ、著者・田仲のよさんと編者・加藤雅毅さんの助けをかりて、5年をかけて千葉の房総半島に生きるチャムス(済州島では海女のことをこういう)のオモニ(お母さん)を探して丹念に取材したものだ。
彼女たちの取材地は外房の勝浦、天津(あまつ)、太海(ふとみ)、和田浦、千倉(ちくら)、また外房の保田(ほた)、金谷、竹岡、以上の8カ所で、済州島出身の28人のチャムス(海女)に出会うことができた。
本書は第8回(1988年度)山川菊栄賞を受賞している。

済州島のチャムスの数についてはこんな報告がある。
1970年―1万4143人
2012年―4574人
2016年―4005人
つまり、この46年間に7割も減少している。しかも高齢化が進み、70歳以上の老チャムスは実に全体の6割を占めるという。
一方、日本の海女の数については、2010年現在だが、以下の報告がある。
千葉県や三重県など18県に2174人(鳥羽市立海の博物館の調査による)の海女がいるという。この数字は40年前に比べると6分の1で、このうち973人は三重県の海女だ。
済州島のチャムスは1930年代に海を渡って日本の各地の海岸に出稼ぎに来ていた。その数は5000人を超えたという。日本の海女の北限は岩手県の久慈といわれる。そう、あの朝の連続ドラマ『あまちゃん』の舞台だ。
金栄(キム・ヨン)さんと梁澄子(ヤン・チンジャ)さんは、戦後になっても房総半島の漁村に残って海の潜りを続けてきた年老いたチャムスたちの生の声を丹念に聞き集めた。彼女たちの技と歴史を1冊のドキュメントにしたのだ。

1990年代に入ると、日本と韓国にしかいない「海女の技と暮らし」 を、ユネスコの世界無形文化遺産に登録しようと、日韓共同の活動が始まる。日本は韓国と同時登録を目指していたが、日本側が世界遺産申請への条件だった国の重要文化財にまで至らなかったため、それは叶わなかった。しかし、国内条件のそろった韓国はユネスコに申請し、2016年11月に、韓国済州島の「済州の海女文化」がユネスコの世界無形文化遺産に登録された。
一方、日本の海女は、ようやく2019年5月20日、文化庁の「日本遺産」に「海女(Ama)に出逢えるまち 鳥羽・志摩〜素潜り漁に生きる女性たち」が認定された。地元ではこの認定をバネに、ユネスコの世界無形文化遺産登録への追い風にしたいようだ。いま鳥羽・志摩には、以前よりさらに減った約750人の海女がいるという。

ソウルオリンピックが行なわれたのは1988年の秋だから、その前年の1987年だったか、編集装丁家の田村義也さんご夫妻とわれわれ夫婦の4人で、3泊4日の済州島の観光旅行に行ったことがある。田村さんは、以前から済州島の「四・三事件」 に関心があり、しかも友人の在日作家・金石範さんの、「四・三事件」を題材にした作品『火山島』(全7巻、1983〜1997、文藝春秋)の装丁をしているときだった。ちなみに金石範さんの田村装丁第1作は『鴉(からす)の死』(1971、講談社)である。

成田から済州島へ。滞在2日目、主峰の漢拏山(ハルラサン)の裾野をめぐる島一周のドライブのために、ホテルでタクシーをチャーターしてもらった。ドライブは島を反時計回りに進み、ランチは運転手の案内で田舎の料理屋でとった。1日が終わる頃には、日本語の少し話せる人のいい運転手とすっかり仲よくなり、夕食は波止場に面した海鮮料理店を教えてもらう。翌日も同じ運転手に案内をしてもらった。この日のランチは、運転手がよく行く、町の冷麺屋に案内してもらい、5人で美味しい黒い本格冷麺を食べることができた。
北東の海岸近くに来た時、彼が言った。「ここの海岸を降りていくと、海女がいるよ。岩陰でアワビなどを食べられるよ」ここで私たちは初めてチャムスのおばさんに会うことができたのだ。
そんなこともあって、翌年刊行した『海を渡った朝鮮人海女―房総のチャムスを訪ねて』の装丁を田村義也さんに頼むのは自然の流れだった。

著者のひとり、梁澄子(ヤン・チンジャ) さんは、在日韓国人として1990年以降、従軍慰安婦問題に深く関わって活躍されている。
また、伊藤詩織さんの民事裁判を支える会の世話人も務めている。