(19)サーカス博覧会ふたたび、木版画運動、上野誠
[2019/4/27]

4月20日に、ふたたび「原爆の図 丸木美術館」へ。この日、最初の関連イベントがあるのだ。最寄りの停留所「丸木美術館東」のある市内循環バスは、日祝は運休!だって。タクシー乗り場で相乗り客がいないか探したが、誰もいない。丸木に着いたのは2時を過ぎていた。すでに俳優・石丸謙二郎さんのトークは始まっていた。石丸さんが21歳のころ、1978年から80年にかけて、関根サーカスでピエロのアルバイトをしていたお話だ。このトークは近々、展覧会の記録集の中に載るようだ。サーカス小屋の寝小屋での暮らし、サーカスでの日常が身振り手振り、実に巧みに語られる。関根サーカスのピエロのアルバイト仲間に、キタロー、斉木しげる、長谷川康夫がいたというのも興味深い。

さてようやく、この展覧会の「出品リスト」が完成、連休中の来館者のみなさまには、お配りできるはず。石丸謙二郎さんからは、「関根大サーカス」のポスター(1980年代)をお借りし、展示している。

  

『闇に刻む光—アジアの木版画運動1930s-2010s』。福岡アジア美術館(2018年11月23日〜2019年1月20日)、アーツ前橋(2019年2月2日〜3月24日)。前橋にも行けなかったが、ようやく先日カタログを入手。


1930年ごろ、魯迅が企画し、中国から始まった木版画運動。日本、ベンガル、インドネシア、シンガポール、ベトナム、フィリッピン、韓国、マレーシアと広範囲にわたる木版画運動をひとくくりにし、いわば腕力を使って俯瞰した大展覧会だ。

企画主催した福岡アジア美術館の黒田雷児(筆名=黒ダライ児)さんという方の情熱がヒシヒシと伝わる。以下、巻頭の黒田さんの文章から引用する。

「木版画は、〈芸術品〉として(だけ)でなく、その技術的・経費的な簡便さによって、交通・複製・通信の手段が限られた時代から、画像による〈情報発信のメディア〉としての特性を持っている。」「本展では〈上からの〉プロパガンダではなく、〈持たざる者〉にも可能な、メッセージを〈下から〉発信する手段として活躍した木版画の役割に注目する」「ここでいう〈木版画運動〉とは、美術家が自分の作品を〈展覧会〉以外の手段で広範な観衆に届ける、制作と普及が一体化した自発的、自立的な行動を意味する。」「美術家は、展覧会よりもはるかに多く、かつ多様な〈観衆〉に到達するために、自作をポスターとして街頭に掲げたり、グループの結成やその機関誌(紙)・同人誌(紙)の発行という自前のメディアによってメッセージを発信したりする。」「インターネットなき時代の、最も〈民衆的〉かつ〈民主的〉な画像メディアとして木版画が機能したことを意味する。」なるほど、なるほど。

同カタログの掲載論文では、竹山博彦の「地方からの文化発信――北関東から全国に広がった版画運動」が注目される。1947年2月に東京の銀座三越で開催された「中国木刻展覧会」が多くの芸術家に衝撃を与えた。1948年に北関東で生まれた「刻画会」メンバーの呼びかけで、全国組織の「日本版画運動協会」が結成される。「版画のメディアとしての力を信じて活動した版画運動。この時代がまさに、戦後日本の1940−50年代だったといえよう。」その中心メンバーのひとり、上野誠の作品もここで紹介されている。


上野誠(1909〜80、長野県川中島生まれ)は、終戦直後、200を超える中国版画展が日本各地で開かれ、これに強い影響を受ける。以後、一貫して庶民の視点から、平和を主題とする木版画を製作した。1952年に丸木位里、俊夫妻の《原爆の図》の新潟巡回展があった。3月23、24日の六日町(現・南魚沼市)会場は、当時同町に移り住んで働いていた上野の周到な準備で開催された。上野は《戦争はもういやです》「平和を守る原爆展」の版画ポスターを50枚ほど手刷りで製作した。(岡村幸宣著『《原爆の図》全国巡回』、新宿書房、p156)


実はこの上野誠は1970年に新宿書房から版画集を出している。『上野誠 平和版画集 原爆の長崎』である。発行人の村山英治(1912〜2001,長野県屋代町生まれ)と著者・上野誠の生まれ故郷は同じ善光寺平だが、どういういきさつでこの版画集が誕生したかはよくわからない。


同書には、山本薩夫(映画監督)と若月俊一(長野県佐久総合病院院長)が跋文を寄せている。そこで山本監督は言う。「上野さんに初めてお会いしたのは、昭和27年、ちょうど血のメーデー事件が起こった年、私が映画『真空地帯』を千葉の佐倉市にある旧練兵場の兵舎で撮影しているときです。映画のポスターを版画でという、いまから考えても画期的な斬新な企画で、上野さんにその製作をお願いしたのでした。」同書のp51にある版画が、映画『真空地帯』では実際どのように使われ、ポスターになったのであろうか。


なお、長野市川中島町には「ひとミュージアム 上野誠版画館」がある。


木版画運動は労働運動や学生運動のビラ、チラシ、タテ看とどこかでつながっているような気がする。ビラやチラシの多くは、謄写版(ガリ版)で印刷され、街頭で配られた。このガリ版印刷については、かつて『ガリ版文化史』『ガリ版文化を歩く』という2冊の本を出したことがある。そして、戦後のサークル運動において広く見られた、絵と言葉を組み合わせた作品を街頭に展示する「辻詩(つじし) あるいは「壁詩(かべし)」にもつながるような気がする。この辻詩については、辻詩をまちうける運命からか、ほとんどが散逸して残っていないが、四國五郎と峠三吉によるコラボレーションの現物は8点が残されているという。