(18)記録映画『アメリカの家庭生活』と3冊の本
[2019/4/19]

国立映画アーカイブが「映画の教室2019——PR映画にみる映画作家」(2019年5月8日〜7月3日、毎回午後7時20分より)というイベントを開催する。

6月5日には、桜映画社の特集が開催される。そこで取り上げられる映画作家は、村山英治、杉井ギサブロー、大塚康生の3人で、『アメリカの家庭生活 第2部 おかあさんの仕事』『たすけあいの歴史——生命保険のはじまり』『草原の子テングリ』の3本の映画が上映され、研究員の解説がある。

そこで本稿では村山英治監督の『アメリカの家庭生活』にふれてみたい。記録映画『アメリカの家庭生活』は35ミリ・カラーの3部構成になっており、全91分。第1部「子供のしつけ」(32分)第2部「おかあさんの仕事」(28分)第3部「アメリカの若い農家」(31分)である。

脚本・演出の村山英治は以下の3冊の書籍の中で、この記録映画『アメリカの家庭生活』のアメリカ・ロケについて記述している。

1)『映画の旅 アメリカ・イギリスの家庭生活』(新宿書房、1975年)「第1部 アメリカの旅」(第1章「アメリカの農家」、第2章「アメリカの家庭生活」、第3章「続・アメリカの家庭生活」)「第2部 素顔のイギリス」の構成。四六判並製箱入り(造本=中垣信夫)、322頁。うち第1部は208頁を占める。

  

2)『来(こ)し方の記 7』(「村山英治——心ある映画づくり」を収録、信濃毎日新聞社、1984年)1982年10月〜11月に『信濃毎日新聞』に連載された村山の回想が収録されている。この中の「9 アメリカの農村ルポ」がこの映画ロケの記録。



3)『桜映画の仕事1955→1991』(発行=桜映画社、発売=新宿書房、1992年)本作品の作品解説と「映画に生きる(私的回想)」を収録。A5判、上製(造本=野路健)、344頁。



実は『映画の旅』(1975)と『桜映画の仕事』(1992)の編集・製作には私自身も関わっている。『桜映画の仕事』は時期的に当然だが、『映画の旅』はまだ平凡社在籍中のことであった。

アメリカへのロケ隊は1963年(昭和38)8月に羽田を発って始まり、約3ヶ月余過ぎた12月に帰国して終わっている。

スタッフは村山とカメラマン2人の計3人。カメラマンは小松浩と加藤和郎である。ロケに持って行ったものはカメラと交換レンズ、撮影用フィル厶、ライト、録音機など。

1963年(昭和38)8月26日、朝の出発が遅れて昼近くに離陸。『映画の旅』の巻頭にある地図によれば、行路順路は以下のようになる。羽田→①サンフランシスコ(カリフォルニア州)→②ニューヨーク→③ワシントン→④シカゴ(イリノイ州)→⑤マジソン(ウィスコンシン州)→⑥シカゴ→⑦エバンストン(イリノイ州)→⑧ニューヨーク→⑨ウッドベリー(コネチカット州)→⑩ニューヨーク→⑪シカゴ→⑫エバンストン→⑬シカゴ→⑭サンフランシスコ→羽田。この行路を3ヶ月余で廻ったわけである。

映画の目的は、アメリカの都市の中流家庭の生活を撮ることが主なねらい。しかし、記録映画は周到に用意したシナリオを持って現場行っても、そのまま撮れるわけではない。しかも、村山にとっては初めての海外旅行、当時すでに52歳。さらに一行の3人とも英語は話せない。それでも、出発前に本などで調べ、人に会ってアメリカの社会事情を勉強する。

アメリカの家庭生活のおおまかなアウトラインは評論家の坂西志保さんからレクチャーを受けたにちがいない。戦前に在米経験のある市川房枝さんからもアドバイスをもらったはずだ。

出来上がった作品の第3部「アメリカの若い農家」となったパートにはネタ本があった。東京大学文学部教授で家族社会学者の福武直(ふくたけ・ただし)さんの著した『世界農村の旅』(東京大学出版会、1962年)の「第1章 アメリカの農村」だ。アメリカの中規模農家では子供が父の農場を継ぐのに、農場の持ち主である父と収益を折半する「分益小作」(シエア・レンタル)が昔からの風習であるという。

出発前に福武教授から、ウィスコンシン州の州都マジソンにあるウィスコンシン大学の農村社会学科のウィルケニング教授やジェームス・バング講師(韓国人)への紹介状ももらっている。同書に出てくる農場にも目星がついている。しかし、映画の主テーマである第1部、第2部は撮影場所や取材する家庭さえも決まっていない。ともかく、架空の家庭での撮影シナリオを作り、さらに現地での交渉にも役に立つように、そのシナリオの英訳も持って行った。

『映画の旅』の中で、こんなことを書いている。「記録映画ではシナリオは現場で撮影しながら一度も二度も書き直される」。

映画ロケで大変重要な役割を果たすことになる二人の女性に、偶然に出会うことができたという幸運に恵まれ、家庭を次々と紹介され、撮影を重ねることができた。そのひとり、ルース・マッシウス女史(アメリカ最大の家庭婦人誌『レデイース・ホーム・ジャーナル』に家庭訪問の記事を書いているジャーナリスト)はワシントンの連邦政府の役所で紹介してもらう。

また、コネチカット州にある元イエール大学児童研究所、現在、「ゲゼル児童研究所」の女性研究者には飛び込みで、英訳したシナリオをみてもらう。「一般的でない」「真実でない」「?」とさんざん書き込まれてシナリオは返された。とどめは「ここで書かれているのはアメリカの戦前の記録です」と。

そこで村山は腹をくくる。「たいへん明快で、文字通り眼からウロコが落ちる思い。登山のパーテイが登頂に失敗して下方のベースキャンプに引き返したようなものだ」「予算もなく、広大なアメリカでロケ地も決まっていないとなると、おおよその見当で、ぶつかったところで納得のいくものを撮りながら、シナリオを訂正してくしかない。しかし、今度のシナリオは、半分は現場のカメラで書くようなものである。何が出てくるか分らないとなると、運と努力と乏しい才能を綯い合わせての勝負であった」

こうした現場での試行錯誤の連続から、当初考えていたニューイングランドでの撮影は縮小して、最初のロケ地のイリノイ州に戻り、一般家庭の子供のしつけとおかあさんの仕事をテーマに撮影。最後に老人たちの生活をサンフランシスコで撮り、ついに3ヶ月余の長期ロケは終わる。

1963年はどんな時代だったのだろうか。日本では池田勇人内閣の時代で、いわゆる「オリンピック景気」の到来。すでにベトナム戦争は始まっており、翌年の64年10月には東京オリンックが開催される。アメリカでは63年8月28日に「人種差別撤廃のワシントン大行進」があった。

実は村山たちはアメリカ滞在中に大変な事件に遭遇する。シカゴの街で映画撮影していた11月22日に、南部テキサス州のダラスでケネディ大統領が暗殺されたのだ。シカゴの町も半旗で埋め尽くされ、翌日、撮影は中止となる。

父の村山英治がアメリカ・ロケをしたのが1963年。記録映画『アメリカの家庭生活』が完成したのが1964年。そしてロケの記録を綴った『映画の旅』が出版されたのが、1975年である。同書の編集・製作に私が関わったことはすでに述べた。実はその2年前の1973年、ちょうど記録映画『アメリカの家庭生活』のロケ地に近いところを私も旅をしている。父の映画ロケの10年後のことだ。

平凡社に入社して3年目。会社の近くに、国際生活体験のプログラムを組んでいる団体があった。今でいうなら、語学研修とホームステイを合わせたようなものだろう。

一度も海外に出たことのなかった私は、このプログラムに応募しようと会社に休暇願いを出し、半年の休職(無給です)のお許しをもらい、5月にアメリカに向かった。ニューヨークからバスで向かった語学学校はバーモント州の最南部、ブラッテルボロという市にあり、学校は市街から離れた山の中にあった。バーモントはニューイングランド地方の一部で南北に細長い州、北はカナダの国境に接している。また東にはニューハンプシャー州、メイン州と続く。週末には、生徒仲間でモントリオールやボストンにも出かけた。

この語学学校でひと夏を過ごした。学生の多くはヨーロッパや中南米から来た者が多く、日本人も10人近くいた。その年の春に起きたウォーターゲイト事件の波紋はこの小さな学校にも及んでいて、教師を中心に反ニクソンの小さな集会も開かれていた。

ニューイングランドの自然はそれはそれは美しかった。近くの森の中にサリンジャーが隠遁していたことを知ったのは、帰国してからずっとあとのことだ。ソ連を追放されたソルジェニーツィンが1976年にアメリカに来て住んだのもこのバーモントだ。そしてこのニューイングランド地方には都会から移り住んで来る若者が多く、小さな大学もたくさんあった。

父のロケ隊が撮影したウッドベリーは、ここバーモントから近いし、景観も似ている。

夏の学校が終わり、希望先を出して、ホストファミリーを選択する。私の希望は「五大湖周辺の農家」。決まった先は、ミシガン州のフリント郊外の農村地帯、ノースブランチという小さな村の酪農を営む農家だった。ここにおよそ1ヶ月お世話になり、毎朝ミルカーという搾乳器を雌牛の乳房につける作業を手伝った。週末はキャンプなどに行き、そこの農家の小さな子供と遊んだ。自分が25を過ぎていることを忘れて暮らした。近くの町、カラマズ―は永井荷風が一年ほど住んでいたところだ。

隣の家が見えない大草原の中のポツンとある一軒家。しかし、トイレは水洗だし、全部屋にエアコン。肌寒い朝にエアコンが自動的に動いていたことに大いに驚いた。夫人がまったく農作業を手伝わないことは『アメリカの家庭生活』(1964)と同じで、ご主人と何人かの手伝いの男衆がいた。

この農場から五大湖の一つ、ヒューロン湖を挟んで映画『アメリカの家庭生活』に出てくるマジソンやエバンストンがある。

昨晩、急に思いついて、父の遺品がいろいろ詰め込んである茶箱の一つをあけてみた。古いシナリオがたくさんあり、第3部「アメリカの若い農家」のシナリオを発見した。中を見ると、指導を受けた福武直教授のアドバイスがいろいろ書き込まれていた。

今から56年前、アメリカの家庭生活に憧れをいだき、日本が目指すひとつのモデルとして作られた映画だった。

いま、私たちの生活は果してその夢を実現しているのだろうか。

そしてまた、私たちはモデルとなった五大湖周辺の工業地帯や農村地帯が今やどのような姿になっているかを、少しは知っている。