(9)松本昌次さん
[2019/2/16]

松本昌次(まさつぐ)さんが亡くなった。2019年1月15日、享年91。
1981年か82年のある日。電通の出版広告の営業をしていた木村迪夫さんに連れられて、未来社の編集長、松本昌次さんを紹介してもらう。伝通院の近くの未来社は、当時、新社屋建設中ということで、訪ねたのは山手線駒込駅近くの仮営業所であった。伝通院の未来社には平凡社時代、百科年鑑の仕事で、社長の西谷能雄さんの原稿をもらいに何回かお邪魔したことがある。西谷社長は出版界の論客として知られ、出版流通問題に一家言のある人だった。松本さんは、後年、西谷さんの本をまとめている。その本のサブタイトルには〈頑迷固陋(がんめいころう)の全身出版人〉とある。まさにそういう人だった。

松本昌次さんは1953年4月のある日、野間宏さんに連れられ、本郷の東大農学部前の東京大学基督教青年会館の一室にあった、八畳ほどの未来社の事務所を訪ねる。これが松本さんの未来社入社である。そこには、西谷社長のほか、2年前に営業部に入社していた青年がいた。小汀(おばま)良久さんだ。弱冠20歳そこそこの小汀営業部長。松本さんは当時25歳。小汀さんは未来社に10年いて、1961年退社、63年にぺりかん社創立に参加、68年に新泉社を起した。(「出版人 小汀良久を偲ぶ」2000年12月、私家版、新泉社より)

その未来社の仮事務所から、私は松本さんから単行本編集のイロハを教えていただく。松本編集塾の始まりだ。平凡社に10年もいたといっても、単なる百科事典編集者であって、その仕事はパーツに過ぎない。ただただ、小さな集団のテングであった。ひとりの書籍編集者としてはまるで素人であった私の目の前には、戦後を代表する編集者がいた。
「人はご飯を食べないと生きていけないが、本はなくても人は生きていける。本というものはその程度のもの。本は目的ではない、道具であり武器だ」と。 そして、一人の作家、著者の本をつくるのは、スカスカの書き下ろしでなく、さまざまな文を集めた「集め本」にこそ、編集の醍醐味がある。著者の小文をモザイクのように組み立て、どう構成、演出するかで、単行本の思想的、芸術的価値が増すのだと。このあたりことは、一度、ブログで書いた事がある。(「編集単行本主義」 )

木村さんがいた電通は日本最大の広告代理店でありながら、中小零細の出版社にはお得意様は少なかった。というより、電通は零細出版など相手にしなかったのが実情だろう。一方で「電通は独占資本主義の手先だ」と真顔で言う版元経営者がまだまだいた時代だ。電通は嫌われていたのだ。
松本さんは木村さんを連れて、丁寧に一軒一軒零細版元まわりをしてあげる。じょじょに木村さんの顔は「本郷村」(本郷3丁目周辺に零細・小出版社が多かったので、そう言われた)では知られるようになった。木村さんは、電通買い切りの広告の枠から、料金を大幅に下げたり、直前に広告のアキがあれば「版下特急支給」を条件に密かに提供(他人にはけっして無料とは言えない)してくれた。またたくまに、木村さんは元・現左翼の多い本郷村で有名人となった。 電通の出版広告営業局の中で、木村都市伝説が生まれたという。
「木村は取引出版社の数が一番多いが、取引総額は一番低い」

私も松本さんに連れられ、東販(現・トーハン)内を案内してもらい、当時まだ新刊の窓口にいた金田万寿人さんに紹介していただき、半人前の出版社にもかかわらず、常備セットの短冊を出してもらった。金田さんはその後、営業部長、社長となり、2013年に72歳で亡くなられている。

松本さんは1983年に30年間いた未来社から独立、6月には影書房を設立。近年その影書房を後進に譲ったあとも、一編集者として現役だった。一葉社などで単行本の編集の傍ら、近年は「レイバーネット」に連載コラムを書いていた。映画評論家の木下昌明さんによれば、昨年、評判の映画『万引き家族』のことが気になり、狭山市の自宅から杖をついて有楽町の映画館まで行ったという。
最後まで松本さんらしい姿である。

松本昌次さんといえば、この人を抜きに語れない。庄幸司郎(しょう・こうしろう)。庄さんと松本さんの物語はいずれまた書きたい。
松本昌次さんは、先述した西谷さんの本のほか、庄さんの本も日本経済評論社から出している。

先日、デザイナーの桂川潤さんから、「松本昌次さんを語る会」のご案内をいただいた。これにあわせ、一葉社では。松本さんの最後の本、『いま、言わねば――戦後編集者として』を2月末に刊行する予定だという。