(21)ふたりの編集者
[2019/5/18]

東京・東中野のSpace&Caféポレポレ坐で5月22日から企画展「上野英信の坑口」が開催される。
上野英信(1923~87)は記録文学作家。彼の作家としての仕事が広く世の中に知れ渡ったのは、岩波新書の『追われゆく坑夫たち』による。この新書は1960年8月に出版され、たちまちベストセラーとなる。その後品切れ状態となったが、2017年5月に〈アンコール復刊〉された。この間、同じ岩波書店の「同時代ライブラリー」として、1994年9月に刊行されている。両書の違いは以下の通り。

岩波新書版:巻末に九州大学教授の正田誠一「日本の中小炭鉱とその労働者たち――跋にかえて――」があり。日炭高松写真サークルによる写真が左頁に随所に入っている。中扉には千田梅二と思われる装画が入っているが、千田の名前の表示はない。
ライブラリー版:文庫サイズ。新書版より文字は大きくなっているが、1行の字詰めはかわらず、新書の原版を流用しているようだ。正田の跋文がない。新書より写真の点数が大幅に減っている。カバー・中扉装画=千田梅二、扉・カバーデザイン=福井ケン。文末にあらたに「上野英信年譜」(作成=川原一之)、解説に「地底の魂」(鎌田慧)が入っている。この「上野英信年譜」は2008年に出版された『闇こそ砦 上野英信の軌跡』(川原一之著、大月書店)に、まったくの同文でそのまま収録されている。川原の手になる追悼録(『追悼 上野英信』)収録の年譜のようだ。

1960年といえば、日米新安保条約批准に反対する安保闘争が怒濤の大衆運動となって日本列島を渦巻く。6月15日の国会前のデモでは、警官隊と衝突した際に樺美智子が死亡している。
九州では総資本対総労働の天王山と言われる三池闘争が起こっている。三池闘争(三池争議)とは1959年から2年間、九州福岡県の大手炭鉱、三井鉱山三池鉱業所での指名解雇反対の大争議をいう。石炭から石油へとエネルギー革命が推進されるなかで、筑豊炭田の中小・零細炭鉱が次々とつぶれる。そうした小ヤマを尋ね歩いて、常に過酷な奴隷労働と飢餓生活に苦しめられている、絶望的な中小炭鉱の極限状況とその労働者たちの苦悶の軌跡を、書き留めたのがこの『追われゆく坑夫たち』だ。上野英信は7年後に、同じ岩波新書で『地の底の笑い話』(1967)も出している。ここでは装画に炭鉱画家・山本作兵衛の絵を使っている。実は、炭鉱絵師・山本作兵衛(1892~1984)の『明治大正炭坑絵巻』(1963、明治大正炭坑絵巻刊行会)、『画文集 炭鉱に生きる――地の底の人生記録』(1967、講談社)も、上野英信が奔走して出版できたものだ。

上野英信の二つの新書を担当した編集者は田村義也(1923~2003)である。いまは装丁家としての実績がつとに知られる田村だが、当時は岩波書店の一社員であった。田村は1948年に岩波書店に入店。出版部、岩波文庫編集部を経て、56年3月に岩波新書編集部に異動。同年9月に編集者として初めて、梅棹忠夫『モゴール族探検記』を担当している。67年5月には岩波新書創刊30年記念で、一挙に15冊の新刊を同時刊行した。田村は3冊を担当していて、そのうちの1冊が上野英信の『地の底の笑い話』であった。
田村義也が亡くなったあと、『田村義也 編集現場115人の回想』(2003、田村義也追悼集刊行会、新宿書房内)が出版され、付き合いのあった多くの編集・出版関係者が文を寄せている。この中で坂口顕さんの「五十年前に出会って」がとても面白い。この見開きの頁の左に〈◎田村義也担当の「岩波新書」主要書目一覧〉が収録されているのもいい。ここには、67年6月に雑誌『世界』編集部に異動するまでの新書編集部在籍11年間に、田村が担当した30冊余のリストが並んでいる。
坂口さんは1956年当時、夜は定時制高校に通う17歳の少年社員、一方の田村は33歳の中堅社員。坂口さんは運転するオートバイの後部に田村を乗せて、著者宅へ原稿取りに走った。この書目一覧には、上野英信『追われゆく坑夫たち』や『地の底の笑い話』のほかに、坂口謹一郎『世界の酒』(1957)金達寿『朝鮮』(1958)、比嘉春潮・霜多正次・新里恵二『沖縄』(1963)、白川静『漢字』(1970)などの名著が並ぶ。『追われゆく坑夫たち』を出した、2ヶ月後の10月には日高六郎編『1960年5月19日』を出している。「この新書は日高さんをホテルに缶詰めにして作ったんだ」という田村談を思い出す。



1962年には編集者・田村義也にとって記念すべき本が出る。多田道太郎『複製芸術論』(勁草書房)だ。装丁者名=田村義也が表示された最初の本である。編集装丁家=田村義也の始まりとなる。そして、67年の鶴見俊輔『限界芸術論』から、日曜装丁家、編集装丁者の姿が本格的に登場する。田村義也の造本の仕事については、前掲の、『田村義也 編集現場115人の回想』のほか、田村義也『ゆの字ものがたり』(2007、新宿書房)、『背文字が呼んでいる―編集装丁家田村義也の仕事』(2008、武蔵野美術大学美術資料図書館)が参考になる。およそ1500点の装丁リストが掲載されている。
田村義也は1985年に岩波書店を正式に退職。二股の日曜装丁家から晴れてフルタイムの編集装丁家となる。岩波在職中には、以下のような上野英信の本の装丁をしている。 『天皇陛下萬歳――爆弾三勇士序説』(1971、筑摩書房)
『骨を噛む』(1973、大和書房)
『出ニッポン記』(1977、潮出版社)
『火を掘る日日』(1979、大和書房)
『眉屋私記』(1984年、潮出版社)



『追われゆく坑夫たち』が生まれた1960年前後には、以下のような書籍が次々と出版されている。
1958年:安本末子『にあんちゃん』(カッパブックス、光文社)。佐賀県の小さな炭坑町に住む、両親を亡くした4人の兄妹のくらしを10歳の少女が書いた日記。同書はこの年の年間ベストセラー第1位となり、翌59年には映画化(日活、今村昌平監督)されている。
1959年:『日本残酷物語』(〜1961。全7巻、平凡社)監修者=宮本常一、山本周五郎、楫西光速、山代巴。「流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた物語」企画者で編集長は谷川健一(谷川雁の長兄)、編集部員は小林祥一郎、児玉惇ら。小林祥一郎『死ぬまで編集者気分』(2012、新宿書房)の中の「『日本残酷物語』のリライト編集」は当時の編集現場を活写している。
1960年:『筑豊のこどもたち 土門拳写真集』(1月、パトリア書店)。サイズは255×180ミリ(B5判、週刊誌サイズで中綴じ製本)、ソフトカバー、96頁、定価100円。ザラ紙に75線のアミ点で印刷。装幀・デザイン=亀倉雄作、「前書き」=野間宏。「このささやかな写真集が貧しい筑豊の炭坑失業者やそのこどもたちのために何らかのかたちで生きるならば幸である。」(「あとがき」から)同書は10万部が売れたという。パトリア書店は学生(丸元淑生といわれる)が経営していた出版社。同年に別会社から、続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社)も出版。映画『筑豊のこどもたち』(1960、内川清一郎監督)は、同年11月13日から東宝系で公開。撮影にはドキュメンタリー映画のベテランの白井茂ほかが参加。

『追われゆく坑夫たち』がこれらの書籍に大いに刺激を受けて出版されたことに間違いない。当時、新書は岩波新書しかなく(中公新書の創刊は1962年11月、講談社現代新書の創刊は64年4月)、いわば岩波新書の独壇場だった。新書は毎月2〜3点刊行のノルマがあり、基本は書き下ろしのため、多くはリライト作業が必要だ。そのため校閲・校正部からのクレー厶、プレッシャーも大変なもので、編集者にとって、かなりきつい環境の中での作業となる。先行する前述の書籍の評判も編集者には重くのしかかるし、営業からの期待もある。
事実、上野は同書のあとがきで、「しかも皮肉なことに、にわかに猫もシャクシも中小炭鉱の悲惨さを書きたてはじめた。あらゆる雑誌や新聞が屍にむらがる蠅のように一斉に〈黒い飢餓の谷間〉に集中した。私の性質がアマノジャクなのかもしれないが、人がそれについて書きはじめると、とたんにもうまったく書く気がしなくなる。それについて人がしゃべり出すと、たちまち沈黙したくなる。」(新書版、ライブラリー版の「あとがき」より)と述べて、執筆の苦しさを吐露している。

同じ「あとがき」には「わざわざ東京からかけつけて協力してくださった岩波書店編集部の田村義也さん」と書いている。当時、東京博多間は寝台特急でも22時間ぐらいかかっただろうから、編集者も大変だった。
『追われゆく坑夫たち』に使われた、日炭高松写真サークルによる迫力ある多数の写真は、先行して同年1月に出版されている土門拳の『筑豊のこどもたち』を彷彿とさせる。従来の新書では掟破りのような異例な多さの写真掲載と、文字数。これらに対していろいろ社内からも声があがっただろうが、さすが田村義也の腕力だ。〆切り、刊行を人質にして見事乗りきっている。どうだ、結果を見ろと。

今回のポレポレの企画展は2017年11月10日から12月17日まで福岡市文学館で開催された「上野英信 闇の声をきざむ」を、いわばその親展(!)にしているそうだが、そこで展示された『追われゆく坑夫たち』の原稿の写真には驚かされる。たぶん、新書編集部から印刷所へ入稿した原稿が刊行後に著者にもとに戻されたのだろう。ここには、ほとんど赤が入っていない。しかもまるでガリ版切りのような文字だ。
上野は1952年頃から自らガリ版を切って筑豊炭坑労働者文芸工作集団の機関誌『地下戦線』を発行、編集責任者として初めて「上野英信」というペンネームを使う。そして、54年から炭坑労働者を主人公にした物語の創作に取り組む。こうして出来た私家版から、えばなし『せんぷりせんじが笑った!』が『ルポルタージュ 日本の証言』(1955、柏林書房)の1冊として出版される。
あの原稿は、数々の同人誌、機関誌を編集そしてガリ切りをしてきた、まさに上野英信の原稿なのだ。実は彼もまた編集者であった。

『追われゆく坑夫たち』と『地の底の笑い話』は、ふたりの編集者の出会いとせめぎ合いから産まれた新書なのである。松本昌次の表現を借りるなら、ふたりの全身編集者のぶつかりあいである。

ルポルタージュ 日本の証言』は最近、復刻されている。柏林社版の編集者であった小田三月がカタログの中で、当時まだ「ルポルタージュという文学ジャンルは、それまで日本でなじみの薄いものだったので、著者たちは、それぞれに方法を模索した。(中略)『せんぷりせんじ』もまた、炭坑夫として働きながら書く、新鮮な試みであった」と述べている。