(57)50年代の「原爆の図」全国巡回のポスターが見つかる
[2020/2/8]

まもなく、原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんの待望の新刊、『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』が刊行される。「3・11」から始まる、まさに「走る学芸員(ランニング・キュレーター)」の躍動感あふれる、「日付と場所(トポス) のある仕事日誌だ。乞うご期待!!

小社では岡村さんの本、『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が観た!』を2015年10月に出版している。同書は連合軍による占領下、丸木位里、赤松俊子(丸木俊)夫妻が描いた「原爆の図」3部作が1950年から約4年間に、全国170カ所をどのような人びとの協力によって巡回し、およそ170万人がどう観たかを解明したドキュメントである。さまざまな資料、図版、写真が載っているが、巡回展のポスターは、同書では、わずか2点しか収録できなかった。ひとつは、1952年3月に新潟県南魚沼郡と中魚沼郡で開催された「原爆の図」展のために上野誠(1905-80)が作った木版ポスター、もうひとつは、たぶん1953年10月22日―23日に開催されたと思われる東京・練馬の「原爆展」のために新海覚雄(しんかい・かくお/1904-68)の描いた絵のポスターだけだ。

今回公表された11点のポスターは、昨年の2019年に美術評論家の青木茂さんと日本画家で武蔵野美術大学共同研究員の後藤秀聖さんが神田の古書店で発見したものだ。この発見されたポスターについては、岡村さんが、『丸木美術館ニュース』(2020年1月15日号)で紹介している。さらに先月の1月24日と31日に東中野・ポレポレ坐で〈新画集「原爆の図」刊行記念トーク〉が開かれ、この発見されたポスターが額装され、同会場に展示された。

そこで岡村さんから提供された11点のポスターの画像をここで紹介しよう。これは『《原爆の図》全国巡回』の読者への大きな追補になるだろう。コメントは『丸木美術館ニュース』の解説から引用した。

『《原爆の図》全国巡回』の巻末には、その詳細な巡回展記録の年譜(1950年〜1953年)がついている。以下、その年譜にしたがって、追補をしてみる。pは、同書の掲載ページを示す。

1)p261:1951年6月20日~22日 岩手県盛岡市・川徳
デパート画廊。ポスターの絵は丸木位里。入場料は10円とある。

2)p261:1951年7月14~24日 京都市・丸物百貨店。「綜合原爆展」の名で知られる画期的な展覧会。ポスターのタイトルは「原爆展」となっている。キノコ雲の絵の作者は不明。

3)p262:1951年11月20日~22日 札幌市・丸井・今井百貨店/冨貴堂。ポスターのタイトルは「アメリカえ渡る不朽の名作 原爆の図五部作展」となっている。

4)p265:1952年4月26~29日 豊橋市・豊橋中央公民館。
5)p266:1952年5月3~7日 名古屋市・名古屋商工館ホール。豊橋展会期中の4月28日に連合国軍の占領から解放され、原爆表現が解禁になった。ポスターの絵は赤松俊子。

6)p267:1952年7月30日~8月3日 渋谷区・渋谷公会堂。ポスターの絵は彫刻家の本郷新(ほんごう・しん/1905-80)と推測される。

7)p267:1952年8月15日~17日 立川市・立川南口公会堂。ポスターのタイトルは「原爆美術展」、版画は地元在住の日本画家・佐藤多持(さとう・たもつ 1919-2004)の作。

8)年譜にない:1952年9月11日~14日 川越市・川越会館。「原爆展」のポスターの作者は不明。1952年9月は浦和の小松原学園、埼玉大学でも「原爆展」が開催されている。また、この巡回展はp272の西岡洋の証言とも符合する。

9)年譜にない:1953年4月28日~30日 主催は神戸大学姫路分校。「原爆展」のポスターの作者は不明、なぜか絵柄は長崎のイメージである。

10)p271:1953年8月31日~9月2日 山口県・防府市会議事堂。野々下徹メモには「1953年7月に3日間開催」とある。ポスターの作者は不明だが、映画『ひろしま』(1953年10月公開、関川秀雄監督、日教組プロ製作)をもとにしている。

11)年譜にない:1954年7月13日~14日 甲府市・岡島百貨店。「原爆の図展」、ポスターの作者は不明だが、初期3部作が欧州巡回中のために出品作は「4,5,6部」。

12)年譜にない:1956年4月21日~23日 神奈川県・横須賀市商工会議所講堂。「原爆展」。

巡回記録に残る展覧会の名称とポスターにある名称が異なる場合が多い。たぶん同じ絵柄を汎用して、各地の巡回展のポスターに利用したためかと思われる。
岡村さんによれば、ポスターの保存状態はきわめて良好で、「これらのポスターから、占領期、そして解放直後の、原爆情報が限られていた時期の人びとの熱気が伝わってきます」とコメント。今後も「原爆の図」作品に関連する調査を続けていくそうだ。

ポレポレ坐の2回目のトークに出席した。ゲストは日本画家で武蔵野美術大学教授の内田あぐりさん、聞き手は岡村幸宣さん。会場には青木茂さんや後藤秀聖さんの顔も見える。テーマは〈画家の目で読む「原爆の図」〉。「原爆の図」を日本画の観点から見つめ直すことの大切さを教えられた。後日、後藤さんに内田トークのポイントを教えてもらった。

「丸木位里は〈墨を流すことで絵はできる〉という言葉を残し、まるで原爆の図ではアクションペインティングをしているように思われがちですが、戦前から、しっかりとした日本画の技法を身につけ、人体デッサンの表現にも優れており、むしろ墨を流して自然に沸き上がるオートマティスムな〈たらしこみ〉に至るまでには、それ相応の仕事の厚みがあるということ。位里の基本をしっかり押さえた日本画・水墨画の技法、前衛的で実験的な絵画表現がなければ、原爆の図から晩年の沖縄戦の図に至るまでの共同制作は成立しないということです。」

ポレポレ坐には広島県三次市にある奥田元宋・小由女美術館の学芸員の永井明生さんも来ていて、4月28日から110点の作品をあつめた「墨は流すもの 丸木位里の宇宙」を開催することを知らされた。丸木位里は広島県安佐郡飯室(いむろ)村(現・広島市安佐北区安佐町飯室)生まれだから、故郷に近い三次市で大回顧展をすることになる。

「原爆の図」が産まれて、70年。この絵が旅した土地の下にはまだまだ、たくさんの物語が埋もれているのだ。