(100)百年の物語・森の奥からかすかに響く音――そして、山びこ学校と大逆事件

[2020/12/5]

宇江敏勝さんの新刊『狸の腹鼓』が発売された。事前予約された読者の中には、すでにもう読み終わっている方もいらっしゃるかもしれない。
『牛車とスペイン風邪』、『乞食』、『山神の夜太鼓』、そして最後の長編、表題作の『狸の腹鼓』の4作品。本書の作品構成は、100年という時間の中に、スペイン風邪、戦後の山村生活風景、そして明治政府の弾圧によって犠牲となった若者の声がかすかに響いてくる山の谷間での60年前の青春譜、これらすべてを包み込んだ、いわば熊野の山村の「百年の物語」と言っていいだろう。

さて最後の作品『狸の腹鼓』のなかから印象に残る二つの事柄を取り上げてみよう。
それは、『山びこ学校』という本のことと、大逆事件で死刑になった成石(なるいし)平四郎のことだ。どちらも主人公の藤江隆和が中学生だった時の担任教師から学んだ事柄だ。作中で大逆事件にふれるところでは、担任の杉中浩一郎という名前も出てくる。そうなのだ、前回のコラムで紹介した杉中浩一郎さん(1922〜2019)なのだ。そのコラムの最後に「『熊野誌』第65号では、宇江さんが杉中先生への追悼文を書いている。」と書いた。先日、宇江さんにこの文章について聞いたところ、これは『紀伊民報』の2019年3月16日号に寄せた追悼文の再録であると言われ、すぐに新聞記事のコピーが郵送されてきた。
この追悼文から、少し引用してみよう。まず、『山びこ学校』のことだ。

「先生は慶應義塾大学から学徒出陣で兵役に就き、東南アジアの各地で転戦の後、昭和21(1946)年に帰還された。しばらく自宅で赤痢やマラリアの後遺症の治療をされた後、昭和25(1950)年に近野中学校の新任教師となり、私たち6期生五十余人の担任をされた。
国語と英語を教わったが、いろんな本を幅広く読むようにもすすめられた。
無着成恭の『山びこ学校』を読み聞かされ、作文を書いた。」

21歳の新任教師の無着成恭(むちゃく・せいきょう1927〜)が山形県南村山郡山元(やまもと)村立山元中学校に赴任したのは1948年(昭和23)4月だった。無着は1年生43名の担任になった。この43名と無着がクラス文集の『きかんしゃ』の第1号を出したのは、翌年の1949年7月のことだった。生徒たちは手をインクで真っ黒にしながら、ガリ版(謄写版)刷りの文集70冊を作った。無着と生徒の分の44冊をのぞき、残り26冊は学校の同僚や知人、中央の知識人そして『少年少女の広場』(新世界社)などの児童雑誌編集部に送った。その1冊は東京にいる国分一太郎(こくぶ・いちたろう1911〜1985 戦前の山形での生活綴方運動の実践者。無着の山形師範の先輩)のもとにも送られていた。
この文集『きかんしゃ』は43人の生徒が山元中学を卒業する1951年3月まで、合計14号が発行された。この『きかんしゃ』のなかの詩や作文などが抜粋されて編んだものが、ベストセラーとなる『山びこ学校――山形県山元村中学校生徒の生活記録』(青銅社、1951)なのである。(注)
実は『山びこ学校』が出版される前から、この文集『きかんしゃ』のことは教育関係者の間ですでに広く評判を呼んでいた。『きかんしゃ』に載った、江口江一の「母の死とその後」は、中央のさまざま出版物に紹介されて、児童文学者や国語教師の間に強い衝撃を与えていた。そして江口の「母の死とその後」は1950年11月、日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した。
杉中浩一郎が近野中学校の新任教師として赴任して、宇江敏勝たち新入生53名の担任になったのが、1950年の4月のことだ。杉中は、この時すでに教育界で話題になっていた文集『きかんしゃ』のことを知っていたにちがいない。同じ20代の青年教師として無着に注目していたはずだ。そして、山形と紀伊熊野と地域の違いはあれ、同じ山村でのきわめて貧しい暮らしは同じだ。主人公の藤江隆和(宇江)は、『山びこ学校』のなかの、「すみ山」(石井敏雄)、「すみやき日記」(佐藤藤三郎)など作文を、どのような気持ちで読んだのだろうか。そして小説のなかで、作者(宇江)はある高校生に江口江一の「母の死とその後」を読ませている。
『山びこ学校』にはこんな詩もあった。

  山
            佐藤清之助
 私は
 学校よりも
 山が好きです。

 それでも
 字が読めないと困ります。

宇江さんの杉中先生追悼文から、大逆事件についてふれた部分に戻ろう。

「大逆事件の成石平四郎について教室で話されたこともあった。政府により当時の社会主義者が弾圧され、紀南地方でも大石誠之助と成石平四郎が処刑された出来事である。のちになって「成石平四郎の生涯」(『熊野誌』)を発表されるが、この頃に調査研究をされていたのである。ようやく近年になって大石誠之助等の名誉が回復されたことを思えば、運動の先駆者ともいえるのではないか。先生の反戦平和主義の思想は、私たち生徒にもよく伝わってきた。社会や政治に対する批判は的確で鋭く、とくに権力者に対しては厳しかった。」

大逆事件(幸徳事件)では、幸徳秋水以下24名が死刑判決を受け、1911年(明治44)にこのうちの12名が絞首刑にされた。死刑判決を受けた24名のうち、なんと6名が熊野人だった。その6人のうち、大石誠之助(新宮)と成石平四郎(請川村)のふたりが死刑となったのだ。『狸の腹鼓』のなかで、藤江隆和は森村季美子に、谷の沢の水を見ながら、今も請川村で小さな雑貨屋を営む、成石平四郎の妹、とみのことを話す。そして、いつか二人でそのとみさんに会いに行こうと約束しあう。

民俗伝奇小説集の最終巻『狸の腹鼓』は著者・宇江敏勝さんから、恩師・杉中浩一郎先生に捧げる本だ。その献辞の言葉が本書のどこかに刻まれているにちがいない。


東京の出版社、青銅社から『山びこ学校――山形県山元村中学校生徒の生活記録』が出版されたのが、1951年3月5日。同書は1955年までに18刷、10万部近くが売れたという。

今回は、青銅社版の後、1956年に百合出版から出版された新版(初版は1956年1月、増補改訂版第30刷は1993年8月)を底本にした岩波文庫版(1995年7月)を参照した。
なお、映画『山びこ学校』(脚本=八木保太郎、監督=今井正)は、1951年10月に山元村で撮影が開始され、翌52年3月に完成。同年5月1日に公開されている。

参考文献
*『遠い「山びこ」――無着成恭と教え子たちの四十年』(佐野眞一著、文藝春秋、1992)
同書には、教え子のひとり、川合(旧姓・上野)キクエが保存していた文集『きかんしゃ』の創刊号から、卒業後3年目の1954年1月に発行された15号までの、計16冊の表紙写真が収録されている。
*本コラムの(73)(74)および(37)(63)も参照のこと。