(60)九段下・耳袋 其のじゅういち
[2020/2/29]

岡村幸宣著『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』の配本が3月3日に決まった。。本書は2011年3月11日、あの東日本大震災の日(「3・11」)から始まる日誌スタイルのドキュメンタリー・エッセイ。2011年から2016年、そして2020年の現在までの記録。
埼玉にある小さな美術館、そこで働くひとりの青年学芸員の日常を通して、この列島の社会と文化の時間が「日付と場所」によって刻まれている。ぜひ若い世代の読者に読んでもらいたい。社会と時代とがむしゃらに向き合って生きてきた、いのちと「仕事」の本だ。

写真集『ある日』

1本の電話をきっかけに、久しぶりに彼の声を聞いた。その前日、ドキュメンタリーを作っている映像製作会社の若いスタッフから問い合わせがあった。『ある日』の著者の方に連絡を取りたい、写真をお借りしたいし、当時のお話も聞きたいとも言う。さっそく、彼に電話するが留守電のため、当方の携帯番号を書いてファクスをしておいた。
『ある日』とは、1984年5月に新宿書房が刊行した写真家・道岸勝一(みちぎし・まさかず 1940〜)さんの写真集である。B5判、中綴じ、カバー付き、白黒64ページ、定価1000円の写真集。1960年代から80年代までの在日朝鮮人たちの「ある日」を撮ったものだ。同書の構成は以下のようになっている。デザイン・構成は野路健(のじ・けん)さん。
1963年10月 東京都江東区深川塩崎町

1964年6月  東京都江東区深川枝川町の子供達



1965年1月  枝川町新年会
1964年6月  枝川町成人学校
1964年10月 東京都小平市小川町、朝鮮大学校
1964年   在日朝鮮人祖国往来要請大行進、大阪→東京
1971年5月  朝鮮民主主義人民共和国帰還再開第1次帰還船、新潟港





1980年9月1日 関東大震災朝鮮人虐殺慰霊祭、千葉県船橋市営馬込霊園
1982年9月1日 関東大震災に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘する。東京都墨田区京成荒川堤防
1981年7月 東京都目黒区祐天寺
1981年8月 東京都東村山市、多摩全生園(ぜんしょうえん)

1980年8月 金幸二 金昌栄 車有南
1981年8月 「祭祀(チェサ)」
1981年9月 人権獲得集会(千代田区全電通会館)崔善恵、北九州市小倉区
1981年1月12日 外国人登録証明書指紋押捺拒否
1984年9月29日 外国人登録証明書指紋押捺拒否予定者会議発会式(千代田区弁護士会館)
1984年10月1日 外国人登録法に抗議してハンガーストライキ(日比谷公園前)
1984年12月 呉徳洙氏母上京

いまあらためてこの写真集『ある日』の造本を眺めると、どうしても土門拳写真集『筑豊のこどもたち』のイメージとダブる。『筑豊のこどもたち』は1960年1月にパトリア書店から刊行された。B5判、中綴じ、白黒96ページ、ザラ紙に印刷された週刊誌のような写真集。レイアウトは亀倉雄策(1915〜1997)。定価100円で、なんと10万部も売れたという。道岸さんや野路さんには、この『筑豊のこどもたち』のことが頭にあったに違いない。イメージがダブるのには理由がある。実は道岸さんは土門拳(1909〜1990)のアシスタントを長く務め修業した写真家なのだ。この『筑豊のこどもたち』はその師匠による、日本写真史上でルポルタージュの傑作といわれている写真集なのだ。(当コラム(21)「ふたりの編集者」参照)

同書の「あとがき」を読むと、道岸さんは1979年8月の新聞で、雑誌『季刊ちゃんそり』の発刊が計画されていることを知り、今まで撮ってきた在日の人たちの写真を持ってこの雑誌の編集部(ちゃんそり舎)を訪ねたことが出てくる。『季刊ちゃんそり』は在日二世の若者たちが中心になって同年9月に創刊され、81年12月刊の8号で休刊している。
道岸さんはこのちゃんそり舎で映画監督の呉徳洙(オ・ドクス 1941〜2015)さんと出会う。そして同監督のドキュメンタリー映画『指紋押捺拒否』(1984、日本語、カラー、50分)にスチール・カメラマンとして参加する。
道岸さんの声は昔と変わらなかった。しかし、13年前に大病を患い、写真の仕事はやめ、今は地元のシルバー人材派遣の仕事に従事していると言う。
道岸さんは呉監督の映画『戦後在日五〇年史 在日』(1997、以下『在日』、日本語、カラー、歴史編/人物編、258分)でもスチール・カメラマンとして参加する。

この映画『在日』には道岸さんだけでなく、何人かの知り合いが製作陣に加わっている。助監督の金聖雄(キム・ソンウン)さん。いまや、『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』(2014)、『袴田巌 夢の間の世の中』(2016)、『獄友』(2018)などの作品の監督として大活躍している。そして製作陣のひとりが金昌寛(キム・チャンガン)だ。出版、興行などの職を経て、いまは不動産業を営む。年に2回、忘年会、花見で出会う仲間の一人でもある。

呉徳洙督は2015年12月13日に亡くなった。亨年74。翌年、京都在住の三室勇(みむろ・いさむ)さんの編集による追悼集『不条理ながら――呉徳洙監督を偲んで』が出ている。三室さんは映画『指紋押捺拒否』の演出・構成を手伝っている。東京では出版社勤務をへて、医療ライターとなり、その後関西に移る。追悼集の制作は、清水千恵子、金昌寛、呉哲煥の3人。さっそく金さんに連絡してみると、追悼集の残部があるといい、すぐに送ってくれた。


表紙画=村山容子『風の詩‘16-11』(2016年)

実は不思議な縁がある。私の叔父・村山新治は映画監督として長く、練馬区大泉の東映東京撮影所で仕事をしてきた。そして、村山は1967年以降、その軸足を映画からテレビに移して仕事をする。現場でいうと、同じ大泉の中にある、東映本社が労働組合対策で作った別会社、テレビ・CM専門の「東映東京制作所」でテレビ映画の監督をするようになる。(小社本『村山新治、上野発五時三五分』(2018)参照)1968年、この大泉の東京制作所に呉徳洙さんがフリーの契約者として入ってくる。呉さんは79年に東京制作所を退所するまでに、村山新治監督の下で何本かの助監督(チーフ)を務める。テレビ映画のタイトルで言うと、『キイハンター』『プレイガールQ』などがあった。その間、呉徳洙・清水千恵子の二人の結婚式では村山新治・容子夫妻が仲人を務めた。

『ある日』に収録した写真などはその後どうしているか、道岸さんに聞くと、在日関係の写真はすべて呉徳洙監督に寄贈したと言う。そして『ある日』のデザイン・構成をした野路さんは、10年前に亡くなっている。
最後に『ある日』のエピソードをひとつ。見本が出来て、取次にこれを届けた。ところが、NGが出て、新刊として受け付けられないという。理由は雑誌と違って、単行本は背にタイトルを入れなければならないというのだ。印刷・製本は福音印刷(現・フクイン)。誰の知恵だったろうか。カバーを全部はずし、背に「ある日 道岸勝一●写真集 新宿書房」と赤で上から印刷し、再度取次に見本を持っていった。忘れられない船出であった。