(27)NYPL異聞、美術館学芸員の仕事
[2019/6/29]

ある人から、こんなシンポジウムがあり、記録も残っているよと教えていただいた。シンポジウムのタイトルは「公共図書館はほんとうに本の敵か?」。先のコラムで紹介した「図書館=無料貸本屋」論争がさらに進んできたのであろうか。

われわれ零細出版社としては、このシンポジウムで発言された筑摩書房の方の意見に大いに賛同する。しかし、筑摩さんと違って、われわれの初刷り部数は1000部前後まで落ちている。
「菊地明郎(筑摩書房相談役)—発行部数の少ない専門書、ひと頃は初刷り3000部だった本がもはや2000部しか刷れない。2000部の教養書を定価3800円で作ると、4割から5割は大学図書館と公共図書館の購入によって支えられている。そして購入された書籍は利用者がすぐに読みたいと思うはずで、図書館で購入した本を館内で閲覧しようと借り出そうと一向に構わない。」

美術館学芸員の仕事

先月終了した「サーカス博覧会」の会場は東松山の「原爆の図 丸木美術館」だった。ここのただ一人の学芸員、岡村幸宣(ゆきのり)さんは、2001年にこの美術館で働き始めてから、丸木位里・丸木俊夫妻が残した《原爆の図》の展示・巡回、社会と芸術表現の関わりについての研究、そしてさまざまな企画展の交渉などを精力的に行なってきた。特に、《原爆の図》が誕生した後に行なわれた全国巡回の軌跡(1950~53)についての研究は、1冊の本となって、2015年10月に、『《原爆の図》全国巡回—占領下、100万人が観た!』として、小社から刊行された。同書は2016年度の第22回「平和・協同ジャーナリスト基金賞」奨励賞を受賞した。
以下、この「平和・協同ジャーナリスト基金賞」奨励賞受賞を報告した拙文(『原爆の図 丸木美術館ニュース』2017年1月、第128号に寄稿)をここに再録する(一部加筆、訂正した)。

まだ終わらない本、これから始まる本
—平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞受賞報告
村山恒夫

小さな、小さな賞だが、とても大切な賞をいただいた。2016年12月10日の昼下がり、東京.・日比谷の日本記者クラブで「平和・協同ジャーナリスト基金賞贈呈式」があり、岡村幸宣さんが同基金賞の奨励賞を受賞された。奨励賞の対象となったのが、著書『《原爆の図》全国巡回—占領下、100万人が観た!』である。
私の手もとに書きなぐった文字が並ぶ出版製作の記録ノートがある。これを見ると、本の企画のことで岡村さんから最初のメールをいただいたのが、2014年の11月となっている。以前から岡村家のリトルマガジン『小さな雑誌』の愛読者であった私が、2013年(6月〜9月)に丸木美術館で開催された「坑夫・山本作兵衛の生きた時代〜戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現」展に行き、岡村さんに初めて声をかけてからのお付き合いだった。このメールから翌2015年10月末に本書の見本ができるまでの、ほぼ1年間は、実にハードな製作期間だったと言えよう。
というのは、15年の春から岡村さんは「原爆の図アメリカ展」(6月〜12月)の打ち合わせ、搬入そして撤収で、なんと1年間で7回もアメリカ出張をしている。これらの出張の合間を縫って編集校正を繰り返し、200点を超える本文写真、詳細の年表と地図も収録した同書の出版までにこぎつけた。まさに元野球少年・岡村さんの若さと体力でこの本は産み出されたわけである。
最初に見せていただいた第一稿は《原爆の図》の技法的な解読や丸木夫妻の評伝にも目配りした内容だった。私自身は美術専門の編集者でもないし、新宿書房も得意の分野ではない。しかし、言論統制下の占領期に、蜂起や一揆のように日本列島を燎原の火のごとく広がる全国巡回展の熱気、ふたりの青年が《原爆の図》の入った木箱を背負って巡回展の流れ旅を敢行する話に私はたちまち魅了され、岡村さんには、テーマを「《原爆の図》巡回」に絞り、一般向けの本にしましょうと提案した。
岡村さんは長年にわたって、《原爆の図》の誕生の経緯と巡回展の記録を調べてきた。その間に二つの重要な出来事があった。一つは2008年1月に丸木夫妻の旧アトリエ兼書斎・小高(おだか)文庫から謄写版刷(ガリ版刷)の「原爆の図三部作展覧会記録」(1950年〜51年夏までの記録)が発見されたこと。もう一つは、2009年11月に目黒美術館で開催された「‘文化’資源としての〈炭鉱〉」展で1枚の写真(1952年1月27日〜28日北海道の美唄炭鉱で開催された「綜合原爆展」の会場入口前に並んだ沼東(しょうとう)小学校のこどもたち)に出会ったことである。
岡村さんはすぐに同美術館の正木基(まさき・もとい)学芸員(当時)に会い、この写真の持ち主、美唄市の郷土史家の白戸仁康(しらと・ひとやす)さんを紹介してもらう。この二つの出来事は《原爆の図》巡回展の歴史の空白を埋める大きな手がかりになった。
書籍出版の仕事で最後に悩むのは書名である。「占領下と《原爆の図》」「旅する《原爆の図》」「君は《原爆の図》を観たか?」「占領下、100万人が観た!」これらのキャッチ・コピーは、サブタイトル、帯やカバーに残っているが、実はすべて、落選した書名ネーミングなのだ。
本書が《原爆の図》の全国巡回展の実態解明の大きな手がかりになり、1950年代の社会文化研究のための、まだ終わらない本、いやこれから始まる本、の1冊になったことは、まちがいない。

いま、岡村さんの新しい本を編集している。最初に考えたタイトルは『走るキュレイター』。これは著者からNGが出て、お蔵入り。いまは仮題で進んでいる。小さな美術館の学芸員が、2011年の〈3・11〉から2016年まで、日本列島、北米、ミクロネシアのパラオ、欧州などを、文字通り走り回った作業日誌をまとめて、一冊の本にするのだ。本書から、日本の美術館に働くスタッフとそれを支えるアーティストたちの、未来が見えてくる、はずである。