(117)九段下・耳袋 其のじゅうく

[2021/4/10]

「南房総の海女とお花畑」

3月の初めだったろうか、まったく未知の方から電話をいただいた。大阪の『毎日新聞』に連載している文章の中で、新宿書房発行の本の中からの引用と掲載イラストの何点かの使用の許可をいただけないかというお話だった。電話の主は、寝屋川市在住の熱田親憙(あつた・ちかよし)という方で、「毎日新聞コラムニストです」と、おっしゃった。もちろん、いいですよとお返事をした。
その後、4月5日に熱田さんから封書が届いた。手紙の中には『毎日新聞』和歌山版3月29日の記事のコピーなどが同封されていた。「紀伊・房総くろしお物語(11)南房総の海女とお花畑」というコラムだった。

そのコラムでは田仲のよさんの『海女たちの四季』から、海女たちが冬の休漁期になぜ花を栽培するようになったかが、丁寧に引用し説明されている。また、この手紙で、熱田さんが1936年、千葉県夷隅郡太東町(たいとうまち、後年に岬町、現・いすみ市)に生まれ、電気メーカーを退職後、画家の道を歩まれてきたことがわかった。さらに「熱田画廊」のサイトをみると、今回の「南房総の海女とお花畑」のコラムが、2020年4月から『毎日新聞』和歌山版で「紀伊・房総くろしお物語」と題する連載のひとつであることがわかり、これまでの11回のコラムの全文を読むことができる。
紀州(和歌山県と三重県南部)と房総(千葉県)の類似点は従来からいろいろ指摘されてきている。醤油(湯浅から銚子へ)、捕鯨(太地と和田浦)、地名(勝浦、白浜など)、海女(紀州=和歌山県・三重県南部と房総)、料理、エトセトラ。日本列島の南岸を沿って流れる暖流は黒潮(日本海流)と呼ばれ、房総半島東方沖で、東に向きをかえる。この黒潮に乗って、魚だけでなく、多くの漁師も東へ東へと向かった。紀州漁民も「鯛釣り漁師・イワシ網漁師・伊勢えび網漁師が好漁場を求めて黒潮に乗って北上し、黒潮と親潮がぶつかる屈指の漁場である房総に定住し故郷を懐かしんで新しい集落に名付けた」という説がある。江戸時代、当時の紀州は漁労技術の先進地であった。漁民や商人が房総半島沿岸に移住するようになり、紀州の文化を房総に定着させたのだった。そのため、黒潮は「日本の海のシルクロード」といわれることもある。
熱田さんの「くろしおがつなぐ紀州と千葉房総の今と昔をたどる」という連載コラム、これからも楽しみだ。

参考サイト:
・本コラム(11)(48)(91)も参照。
https://kusanomido.com/life/kankou/22249/

谷隼人

本コラム(111)で紹介した村山新治監督にまつわる「ふたりの俳優、小林稔侍、小林寛」の続きである。村山新治自伝『村山新治、上野発五時三五分』では、p333の『あゝ予科練』(68)のところで、この谷隼人の名前が出てくる。「…名前の売れている少年俳優たちを全部集めたんだよ。あと谷隼人、桜木健一とか。」
そこで、谷隼人の村山作品の映画・テレビ出演作を調べてみる。
映画:
『赤い夜光虫(夜の青春シリーズ7)』(66)
『ボスは俺の拳銃で』(66)
『あゝ予科練』(68)
『㊙ トルコ風呂』(68)
テレビ:
TBS『キイハンター』(1968〜73)
TBS『アイフル大作戦』(1973〜74)
TBS『バーディ大作戦』(後に「バーディー」と表記)(1974〜75)


『あゝ予科練』(68)の新聞広告。『村山新治、上野発五時三五分』のp335より。
下左が谷隼人、当時22歳

村山新治へのインタビューでは、谷隼人へのコメントは特になかった。谷隼人(1946〜)は鹿児島生まれで、小学生の時に父親の仕事の異動で上京したようだ。
実は私と谷隼人は東京の中野区立中学校の同窓生だ。彼(イワヤ君)は西武新宿線の下井草駅に近い自衛隊(当時は防衛庁)のアパートに住んでいた。中学卒業から60年たったが、この間、一度も彼には会ったことはない。もちろん、彼は私のことなどは覚えていないだろう。
今回、調べていたら、谷隼人が映画『狭山裁判』(76、製作=部落解放同盟埼玉連合、配給=東映) で、狭山事件の被告人の石川一雄を演じていることを知った。監督は阿部俊三(1944〜2015)。阿部は1965年に東映入社、70年に退社している。なお、この映画のキャメラマンは村山新治作品『七つの弾丸』(66)『赤い夜光虫』(66)『ボスは俺の拳銃で』(66)『あゝ予科練』(68)などでおなじみの仲沢半次郎(1913~97)だ。阿部俊三が村山新治のもとで助監督をしていたことは確認できないが、やはり村山新治、仲沢半次郎、谷隼人はどこかでクロスしている。

注:
キャメラマンの仲沢半次郎さんの生没年については、なかなかわからなかった。映画キャメラマンの団体、「(協)日本映画撮影監督協会」に問い合わせたところ、事務局の方が教えてくださった。享年84ということになる。仲沢さんの最後の作品は『青春の門 自立篇』(蔵原惟繕監督、東映、82)だろうか。仲沢さんが亡くなった1997年といえば、村山新治は最後の仕事が終わり、回想記を書き出しているころだ。

参考サイト:
本コラム(111)
https://mixi.jp/view_community.pl?id=2429904