(74)新村忠雄の歩いた時間 承前
[2020/6/6]

まず訂正。ある方からメールをいただいた。新村忠雄の生まれた「屋代の町を通る道は信州街道ではありません。信州街道はずっと北にあり、群馬の鳥居峠を越え須坂から善光寺に行く道です。屋代(かつては宿場町「矢代」)を通るのは北国街道です。当時は国道5号線といい、今の国道18号線です。」そこで北国街道と訂正する。
また別の方に『更埴市史 第三巻 近・現代編』*1の中の記述をお教えいただいた。新村年譜の訂正。「新村忠雄は1903年(M36)に上京。東京・浅草の永井直治牧師宅で2年間を過ごす。1905年(M38)に、兄の善兵衞が日露戦争で再招集されたため、帰郷した。そして、兄のすすめで、日本メソジスト長野教会屋代講義所で洗礼を受けている。」

さて、ふたたび、新村の死刑までの動きをたどってみよう。
1909年(M42)2月4日 前橋監獄、出獄
2月5日 屋代に帰郷せず、そのまま前橋駅から日暮里・経王寺(きょうおうじ)庫裏の間借り人、茂木一次宅へ
2月6日 巣鴨平民社へ。巣鴨平民社の住人(住込み社員)となる
2月13日 機械職工の宮下太吉が初めて平民社を訪ねてくる
3月6日 紀州熊野の新宮(しんぐう)から成石平四郎が平民社に現れる。新村とは初対面
3月18日 平民社、巣鴨から千駄ヶ谷に引っ越す。平民社の近くには警察の見張りテントが常設され、訪問客をいちいち呼び止めて足袋までぬがせて臨検している。管野スガが平民社の助手となり、幸徳と起居を共にするようになる。新村は自分の居所はないと思うようになる
3月29日 ドクトル(毒取る)大石こと大石誠之助を訪ねるため、新宮にむけて出発。阿部米太郎から五円のカンパ。新橋から午前6時発の大垣行きに乗る。午後3時浜松下車。旧知の金原淳一宅で一泊
3月30日 浜松から熱田へ。桟橋近くの木賃宿泊
3月31日 午前8時、大阪汽船の連絡船(205トン)で新宮町近くの三輪崎(みわさき)町まで。3等1円70銭。大阪・天保山と名古屋・熱田をつなぐ連絡船は紀伊半島を一回りし、毎日一便、それぞれの港から出航していた
4月1日 正午に三輪崎港に接岸。そこから紀州新宮の町へ。脇に「牟呂新報新宮支局」の小ぶりの木札がある大石医院に。ここでの、およそ5ヶ月に及ぶ新宮生活が始まる
4月9日 伊那浅吉を案内人にして、熊野川を舟で上ぼり、熊野本宮に近い請川(うけがわ)村の成石平四郎宅をめざす
4月10日 小津荷(こづか)を通り、請川で降りる。湯ノ峯温泉まで歩き、伊那浅吉宅の旅館伊勢屋に泊る
4月11日 成石平四郎が迎えにきて、生家(雑貨商)に行く。そこから、川湯温泉へ。新村はそこに8日ほどいた。この間、新村は「暴力と無政府主義」の翻訳を続けていた
5月1日 新宮警察署が新村のことで、大石医院を訪ねてくる
6月 幽月(管野スガ)から手紙が届く。長野県東筑摩郡の明科(あかしな)局消印の封書で「○○を製造して主義のために斃れる決意だ」という宮下太吉の手紙のことが書いてあった
7月15日 幽月(管野スガ)、拘引される
7月19日 同日付消印の宮下太吉からの手紙が来る
8月20日 午後7時近く、新宮近くの三輪崎港を離れる。乗船切符名は「大石眞子二十三歳、学生」。眞子はドクトル大石の姪の名だ
8月21日 木本、二木島、九鬼をまわり、午前零時半、尾鷲港に。鳥羽で下船、参宮線に乗る。亀山で乗り換え、午後5時半ころ、終点の名古屋に。午後11時過ぎ、東京行き三等急行に乗る
8月22日 午前8時に東京新橋着。その足で千駄ヶ谷平民社に。テントにいる監視警官に愛想を振りまきながら戻る
9月1日 管野スガ、罰金400円を課せられ、東京監獄を出獄
9月16日 群馬県勢多郡荒砥村の阿部米太郎を訪ねる。喜多一、坂梨春水に会う。そのあと、高崎から信越線で信州へ。屋代で降りず、篠ノ井駅で乗り換えて明科駅で下車。そこの官営製材所に勤務する宮下太吉に会う
9月20日 長野市に出て、知り合いの間を回る(募金カンパ活動)
9月30日 千駄ヶ谷平民社に戻る
1910年(M43)1月 模擬爆弾の土産話を持参した宮下太吉を囲んで、幸徳、管野スガ、新村の4人で正月を祝う
3月22日 幸徳、管野スガ、千駄ヶ谷平民社を発って、湯河原温泉の天野屋へ
3月23日 屋代に帰省。宮下に何回か会う
4月26日 23歳の誕生日
5月1日 管野スガ、幸徳と離別して、湯河原天野屋を出る
5月17日 信越線で上京。2ヶ月ぶりの東京
5月18日 管野スガ、日比谷の東京控訴院に出頭、換金刑を執行された。夜、西大久保の田岡嶺雲から幸徳が預けていた、謄写版(ガリ版)などを受け取る。ガリ版刷りの「屋代通信」を発行して、全国の地方同志に獄中にいる幹部らの消息や援助差し入れを呼びかけよう、と考える
5月20日 角袖(かくそで:角袖巡査のことで和服の私服巡査)をまいて、上野発長野行きに列車に乗り込み、高崎駅で乗り換え、荒砥村の阿部米太郎を訪ねる。翌21日に屋代に帰る
5月25日 宮下太吉、拘引される
5月25日 屋代町で新村忠雄、拘引される。同日、忠雄の兄、善兵衞も拘引される
5月29日 古河力作、拘引される
6月1日 幸徳秋水、管野スガ、拘引される
6月5日 大石誠之助、拘引される
6月28日 成石平四郎、拘引される
1911年(M44)1月18日 新村忠雄ら24名に死刑判決
1911年(M44)1月24日 新村忠雄ら11名に死刑執行
1911年(M44)1月25日 管野スガに死刑執行

1909年から1910年までの2年間、平民社のメンバーとなった新村忠雄が歩き回った時間の中で、彼に出会った多くの人々が、「大逆事件」の関係者となった。集団のクラスターは東京と新宮になる。
ここに1912年(M45)当時の鉄道地図がある。新村忠雄が乗った鉄道路線をなぞってみる。青函連絡船は1908年(M41)に、関門連絡船は1901年(M34)に開設しており、鉄道は北は北海道から南は鹿児島までつながっていた。しかし、紀伊半島南部には鉄路がなく(なんと、紀勢本線が全通したのは、1959年[S34]である)。新村が新宮のドクトル大石を訪ねるために使った足は、熱田からの汽船だった。

ドクトル大石が開いた「太平洋食堂」。太平洋食堂(パシフィック・リフレッシュメント・ルーム)は、西洋風簡易生活法(料理やマナー)を新宮の大人や子どもに教える場所であり、新聞・雑誌の縦覧所でもあり、簡易なる楽器、室内遊戯の器具も置いてある遊び場だった。「あの海はアメリカまで続いとる、広い広い、世界で一番大きな海や。世界の人らはあの海のことを太平洋――英語でパシフィック・オーシャンいうとる」(柳広司『太平洋食堂』)新宮の人々にとっては東京よりアメリカの方が近いのだ。息苦しい東京からきた新村は、このハイカラな町にどんなに癒されたことか。
成石平四郎が一度は仕事とした熊野川の船師(ふなし)と団平船(だんべいぶね)や新宮の川原町の光景。これらは宇江敏勝さんの作品でおなじみの世界だ。*2
新村青年がまるで泳ぎまわるように歩いた場所(トポス)の中には、全国紙のほかそれぞれの県で発行されている商業新聞があり、郵便、電報などの通信が交差し、また社会主義者の出す新聞とその読者もその中を歩いている。さらにそのまわりを警察が角袖を使って尾行し、監視している。全体がひとつの舞台で演じられているようだ。さらに東京には多くの写真館があり、人々はなにかと記念写真を楽しみ、また明治初年に流行った「新聞縦覧所」の性格を受け継いだ「ミルクホール」*3に人が集まり、そこで官報や新聞そして故郷の新聞を読む人々がいた。新村たちはそんな文化空間をまわりながら、直接行動の夢をふくらまし、最後は謄写版*4を抱えて故郷へ向かって行った。

参考文献
*1『更埴市史 第三巻 近・現代編』(更埴市、1991)
*2『熊野川――伐り・筏師・船師・材木商』(宇江敏勝著、新宿書房、2007)ノンフィクション作品を集めた「宇江敏勝の本 第2期 第4巻」である。
『流れ施餓鬼』(宇江敏勝著、新宿書房、2016)「宇江敏勝 民俗伝奇小説集」の第6作である。「新宮 川原町界隈」「団平船の熊野」の作品が収録されている。
*3『牛乳と日本人(新版)』(吉田豊著、新宿書房、2000)新版の装丁はご本人のたっての希望で田村義也さんの手になる。この中に「東京牧場とミルクホール」という章がある。


カバー


*4『ガリ版文化史――手づくりのメディアの物語』(田村紀雄・志村章子編著、1985)堀井新治郎が謄写版(ガリ版)を発明したのは、1894年(M27)だ。新村の時代には、謄写版印刷は広まり、堀井の謄写堂は上海出張所を開設するまでになっていた。