(64)『晴れた日に…雨の日に…』
[2020/3/27]

山村茂雄さんの新刊『晴れた日に 雨の日に―広島・長崎・第五福竜丸とともに』(現代企画室、2020)を読む。今年88歳になる著者による、A5判360ページの大著である。山村さんは1958年(昭和33)から原水爆禁止日本協議会(以下、日本原水協)に入り、情報宣伝(情宣)部の一員として反核運動の文化活動に従事し、退職後の現在は第五福竜丸平和協会の顧問をつとめている。


装幀=杉浦康平

本書は大きく2部に分れて構成されている。第1部は〈第五福竜丸保存運動の歩みのなかで〉というサブがついた回想編で、タイトルは「晴れた日に 雨の日に」。これは、第五福竜丸平和協会の機関誌『福竜丸だより』に2010年1月から2017年1月まで40回にわたって連載されたものを整理・加筆・一部削除したものだという。
第2部は「自分史」とあり、通しタイトルは「戦時下、戦後に生きて」。1932年の誕生から1958年の原水爆禁止運動への参加までを4章にわけて、いわば「生活史」として綴っている。
第1部、2部がはたしてうまく繋がっているのかは、著者も「あとがきにかえて」の中でやや危惧しているように、これはなかなかむつかしいところだ。1部と2部の順序を入れ替える?のも一案だったかもしれない。目次では第1部はタイトルのみだが、40もある項目を抜き出す工夫が欲しかった。あるいは、1部と2部をつなぐブリッジとして、人名・事項索引(せめて人名索引だけでも)や年譜(著者・社会)を巻末に作るべきだったかもしれない。しかし、これは著者の責任ではない。むしろ、これらはみな編集者の仕事である。

「宣伝技術グループ」の誕生とその仕事

本書で著者が1部、2部でも数回にわたって、まるでリフレインするように回想しているのが、この「宣伝技術グループ」の仕事のことだ。この仕事の全体を事務局としてひとり仕切ってきた著者だからこそ、それだけ思い入れあるのだろう。
山村さんが日本原水協の事務局にアルバイトとして通うようになったのは、1958年(昭和33)の春からだ。翌年の59年には第5回原水爆禁止世界大会が広島で開催されることになっていた。この大会にむけてのポスターなどの宣伝物の制作に、山村さんが担当することになる。幸いなことに「事務局は手薄で、一方また一種の寛大さ」(本書)があったという。それまで開催された4回の原水爆禁止世界大会のポスターの制作には、次の人びとが関わっていた。第1回(赤松俊子=丸木俊)、第2回(佐藤忠良)、第3回(粟津潔)そして第4回(丸木俊)である。
山村さんは、第5回原水爆禁止世界大会を迎えるに際し、日本原水協情宣部に下に「宣伝技術グループ」を立ち上げる。複数の詩人やデザイナーに参加してもらい、宣伝物の共同制作が出来ないものかを構想していたのだ。
当時はどんな、社会状況だったのか。1958年10月から11月には警職法反対闘争が繰り広げられ、1959年から60年には日米安保条約改定に反対する「安保闘争」があった。

「宣伝技術グループ」は1959年の春に誕生した。代表に詩人の関根弘(1920〜94)、ディレクターに美術評論家の瀬木慎一(1931〜2011)と詩人の長谷川龍生(1929〜2019)、そしてふたりのデザイナーの粟津潔(1929〜2009)と杉浦康平(1932〜)、以上の5人でスタートした。粟津潔が30歳、杉浦康平が27歳の時だ。このふたりのデザイナーのコンビ、今思うと、不思議な組み合わせだ。本稿のテーマではないが、杉浦は「デザインとは何か……を考えるうえで、粟津潔は60年代の私にとってのよき先輩であり、対話者であり、挑発者であった。また一方で、反面教師でもあった。」という(杉浦康平:『粟津潔 荒野のグラフィズム』フィルムアート社、2007)。下記のサイトにある杉浦へのインタビューはとても興味深い。
http://www.kanazawa21.jp/tmpImages/videoFiles/file-52-10-file-9.pdf

その後、詩人の谷川俊太郎や茨木のり子、漫画(アニメ)の真鍋博、久里洋二らが加わった。従来は、運動側からの依頼を芸術家たちが協力して制作してきたが、このグループでは「運動方針に合わせた宣伝ポリシーを検討し、主体的に宣伝物制作にあたることにしたのだ。運動への〈協力〉から〈運動参加〉への転換だった」。キャッチコピーも宣伝物に合わせて作った。そして使用するカラーは共通の色を使い、募金帳、ステッカー、壁新聞、各種袋物、チラシなどの宣伝物は全体に見事に調和したという。こうしてあの第5回世界大会のポスター(「原水爆禁止+核武装反対!」粟津潔+杉浦康平の共同制作)が生まれた。この「宣伝技術グループ」の仕事は、原水爆禁止運動が分裂する1964年の第10回世界大会まで続いた。


粟津潔+杉浦康平 原水爆禁止+核武装反対!
(第5回原水爆禁止世界大会ポスター、1959年)


『hiroshima-nagasaki document 1961』函(28×28)

日本原水協が1961年に海外向け刊行した英文写真集『hiroshima-nagasaki document 1961』(『ヒロシマ・ナガサキ ドキュメント1961』)の制作実務もこの「宣伝技術グループ」がした。写真集は、東松照明の撮り下ろしに、丸木位里・丸木俊子の「原爆の図」3葉、土門拳の『ヒロシマ』の3部構成。デザインは粟津潔と杉浦康平、装丁は杉浦。作業は当時、青山学院の近くにあった杉浦の事務所兼自宅で行なわれた。
「写真原稿は杉浦さんの奥さん冨美子さんがトレーシングペーパーをかけてくれた。冨美子さんは時間がくればみんなの昼食、夕食も心配しれくれた。」なんと、ここであのなつかしい冨美子さんのお名前が!

それにしてもこの「宣伝技術」という言葉が気になる。1950年代に入ると戦後日本の産業、社会の復興は本格化し、成長の時代に入る、同時に企業・商品の広告宣伝も盛んになる、そんな時期だ。

1950年:日本広告業協会設立
1951年:日本宣伝美術会(日宣美、デザイナーの職能団体。1970年解散)
1951年:ライトパブリシティ(日本初の広告制作プロダクション)設立
1959年:日本デザインセンター(広告制作プロダクション)設立

ちょうど、「商業デザイン」「図案」「意匠」が「グラフィック・デザイン」へと、漢字からカタカナの文化へ移行する時期であった。「宣伝技術グループ」に加わるメンバーや協力する人の中には、広告代理店に籍を置く人もいた。「宣伝技術」というネーミングを誰が付けたのかは明らかにされてないが、関根弘の関係する雑誌『現代詩』の表紙のデザインを担当していた中井幸一も本書に登場する。中井は当時、電通の宣伝技術局の局長をしていた。彼は「宣伝技術グループ」のメンバーではないが、協力者のひとりだった。電通という会社からは、いくぶん戦前の匂いもしてくる。このあたりが語源かもしれない。
「宣伝技術グループ」は、制作者としてポスターやチラシに表示されることはなかったし、世間に喧伝されることもない、いわば匿名のインフォーマルな作業集団だった。
正式に記録されてこなかった、この「宣伝技術グループ」の仕事を、自らの体験と記憶によって掘り起こし、「芸術運動」として再評価したのは、本書の功績の一つである。

最後に第2部「自分史」のなかの第3章「清瀬病院—療養と青春と相聞と」にもふれないわけにはいかない。著者が21歳から25歳まで結核患者として、国立療養所清瀬病院に入院し、生活した記録である。すでにいくつもある結核療養の清瀬文化誌の中に新たに加えるべき、大事な記録となっている。しかも清瀬病院の療友の中に鹿島光代さんの名前がでてくるのにはびっくりした。あのドメス出版の鹿島さんなのだ。