(36)記憶の社会、記録の社会―アメリカ 其3
[2022/5/14]

最初の回(アメリカ 其1)に紹介したミシガン州の小さな村ノースブランチからちょうど車で2時間、真東に走ると、五大湖の一つに面した港町ポート・ヒューロンに着く。ヒューロン湖の西岸にある町だ。ある週末、世話になった農家の家族と一緒に買い物に出かけたことがある。ここで1962年6月、アメリカの学生運動の団体SDS(民主社会のための学生連盟)が大会を開いて、後に「ポート・ヒューロン宣言」と呼ばれる声明を発表した。この「ポート・ヒューロン宣言」はその後のアメリカ学生運動の動向に決定的な影響を与えた記念碑的文章といわれ、日本でも翻訳されている(『ドキュメント現代史 アメリカの革命』新川健二郎編、平凡社、1972年)。*宣言の草案は当時22歳だったトム・ヘイドン(現在カリフォルニア州議会議員だが、ジェーン・フォンダの元夫として知られている)⁑が執筆している。
SDSを中心として1960年代のアメリカのニューレフト運動とカウンターカルチャーを概括した大著が、トッド・ギトリンの個人史的回想録『60年代アメリカ―希望と怒りの日々』(疋田三良他訳、彩流社、1993年)である。この本の残念なところは、索引がついていないことである。原書にあったか否かは確かめていないが、ほんとうに惜しい。著者ギトリンはポート・ヒューロンの翌年、わずか20歳でSDSの議長に就任している。SDSはブラック・パワー、ウーマン・リブ、ベトナム反戦、ヒッピームーブメントの渦の中で1969年に解体した。
SDSの周辺にいてヒッピーなどが始めた自然食運動の趨勢を中心に、1960年代から80年代のアメリカの食と文化を跡づけたのが、ウォーレン・S・ベラスコの『ナチュラルとヘルシー―アメリカ食品産業の変革』(加藤信一郎訳、新宿書房、1993年)である。このアメリカでの原書にはトッド・ギトリンが推薦文を寄せている。この二書は60年代アメリカの政治と食(生活)について記している、いわば双子のような本である。このような合い関連する本が何の脈絡もなく同時に別々の出版社で翻訳されるのが、日本の出版界の不思議なところである。
アメリカを変えたといわれる時代、60年代から80年代までの大衆文化を含めた文化社会史の大著がアメリカで次々と出版されている。すこし前には1969年に開かれたロック・フェスティバルの大インタビュー集も翻訳されている(『ウッドストック―1969年・夏の真実』(寺地五一訳、新宿書房、1991年)⁂。書評は山ほど出たが、ほんとに売れなかった!
日本ではこのような文化社会史の書物は出ない。なぜ出ないか?アメリカの大学出版局の活動が日本とは桁違いに盛んなこと、研究者に対して様々な財団が援助をすること、といったこともその理由にあげられるだろう。しかし決定的なことは彼らがいかに多くのエネルギーを歴史の記録という作業に費やしているかということであろう。たとえば日本のベ平連の運動について、膨大な関係者からの聞書きをもとに記した大著がアメリカの研究者によってアメリカで出版され、そして日本で翻訳された(『海の向こうの火事―ベトナム戦争と日本1965−1975』(吉川勇一訳、筑摩書房、1990年))のをみると、この日本という国は、とうてい記憶の社会、記録の社会ではない、と思う。

* このシリーズを編集したひとりが山口稔喜。平凡社時代の先輩で私の在社中はほとんど交流がなかった。しかし、この10年、杉浦康平さんを介して、新宿書房の仕事へエールを送ってくれた「晩年の友」である。2022年2月28日死去、享年80だった。
⁑現在は、トム・ヘイデンと表記されることもある。2016年死去。
⁂ウッドストックについては、「俎板橋だより」(34)(36)を参照。


『ナチュラルとヘルシー』本表紙