vol.37

熊野へ (1)  [2002/04/03]

ほんとうに久しぶりに熊野を訪れた。3月22日の夕刻、JR川崎駅から市営バスに乗って、川崎フェリーターミナルに向かった。帰宅を急ぐ人々があふれる駅ビルの喧騒は、バスが動き出すや、すぐに雨に塗れる暗いコンビナートの風景の中に消えていく。

パイプが入り組む石油精錬所のような工場には、まったく人気がない。乗客の多くは夜勤の人たちらしく、ポツポツと降りていく。このバスははたして海に向かっているのだろうか。川崎ターミナルはその工場のはずれにあったが、海が見えない。

午後7時20分、宮崎行きの1万トンのフェリーは川崎港を出航。かなり激しい雨の夜だが、海はしけていない。外海に出ても大したゆれもなく、那智勝浦に翌朝の5時50分に寄港。港には宇江敏勝さんと画家の酒見綾子さんが出迎えに来てくれた。宇江さんとは2000年4月2日、国技館でのボクシング観戦以来の再会だ(『森の語り部』360頁参照)。酒見さんには、旧版『山の木のひとりごと』(1984)のカバー装画と本文の挿絵を描いていただいた。

宇江さんの車で、那智大社、青岸渡寺、那智の滝を見てまわり、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)に寄る。上人を那智の浜から生きたまま船に乗せ、外に出られないように釘付けにして沖に流し、南方海上にあるとされる観音浄土、補陀落世界へ往生しようとする宗教儀礼が「補陀落渡海」で、この寺から多くの渡海者が船出したという。熊野信仰の重要な宗教行事だ。

次に寄ったのが串本町の大島。かつては串本節で名高い串本と大島をむすんだ巡航船に代わって、いまは橋がかかり、車で渡れる。島には2つの記念館がある。「トルコ記念館」と「日米修交記念館」である。

1890年(明治23年)6月、トルコ皇帝の特派使節として来日した軍艦エルトゥールル号が帰国の途中の6月16日の夜に熊野灘で暴風雨にあい、650余命の将兵のうち、587名が死んだ。遭難の際には大島島民は献身的に救助活動や遺体引き上げ作業を行ったという。

トルコ記念館はトルコ(土耳古)軍艦遭難記念碑の近くに建てられ、エウトゥールル号関係の資料展示をしている。その先には明治3年(1870)にイギリス人技師によって建造された日本最古の石造りの樫野埼(かしのざき)灯台がある。

実は4月下旬に、『犬と三日月―イスタンブールの7年』というエッセイ集をだす。加瀬由美子さんという、ものすごいパワーのある日本女性のトルコ生活記だ。トルコの人々がどうして日本贔屓なのか、よくその理由に挙げられるのが、このエルトゥールル号遭難に際しての日本人による救助活動と日露戦争の日本の勝利だという。そんな話を加瀬さんとしたばかりだったので、偶然の訪問がうれしかった。

日米修好は1853年(嘉永6年)のペリーの浦賀入港をもって嚆矢とするのが、定説になっている。じつはそれよりさかのぼること62年前の1791年(寛政3年)に、「レイディ・ワシントン号」(ケンドリック船長)など2隻のアメリカ商船がこの大島に寄航したことを記す文献があるという。

この事実を記念したのが、日米修好記念館だ。ノンフィクション作家の佐山和夫の著作もあるが、歴史学者はこの文献記録をどの程度評価しているのだろうか? いずれにしてもこの大島がさまざまな歴史のロマンの舞台になっていることに間違いない。

さて、中辺路町野中の宇江さんの家の着いたわれわれは、奥さんの武子さん、宇江さんのお母さん、近くの白浜から手伝いに来ていた妹さんの女性チームの指揮の下、さっそく夕餉の支度にはいる。今晩はチャンコ風鍋だ。

参考URL:
和歌山県立串本高校ホームページ
http://www.aikis.or.jp/~khs/

参考文献:
佐山和夫著『わが名はケンドリック』1991年、講談社

熊野へ(2)へつづく

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