vol.38

熊野へ(2)   [2002/04/08]

宇江さんは昨年、庭先に「ささゆり庵」と名づけた庵を建てた。笹百合はユリ科の多年草で、中部日本以西の山地に自生する。武子さんの説明によると、「主人が一番好きな花がササユリです。庵のまわりはササユリでいっぱいにしたいと思っているようですが、ササユリは育てるのも増やすのもとても難しい花なので、ひそかに心配している」(『森の語り部』142頁より/ササユリそうだ。

庵は天井が高く、まだ木のにおいがプンプンする、立派な造り。板張りの部屋中央に桜の木のワクで囲まれた囲炉裏が切ってある。この庵にはトイレも台所もある。囲炉裏のある庵を作るのが、宇江さんの長い間の夢だったそうだ。炭焼生活の長かった宇江さんがどうしてもほしいのが、火の神なのだ。

翌朝は前の晩の熾き炭を起こして、鍋で茶粥をたべる。深酒で痛めた胃にやさしく、3杯もいただいてしまった。食後、愛犬のモコの散歩を頼まれ、村の道をぐるっとまわる。このモコは20年前に宇江さんの前の家にお邪魔したときに元気だったモコの2代目だ。初代モコは、『山に棲むなり』にたびたび登場します。

9時に妹さんを留守番に残し、車に総勢5人とモコを乗せて、道湯川の蛇形地蔵の祭りに出かける。熊野古道の湯川王子跡がのこる道湯川の里は、今は住む人や家もないが、年一回の蛇形地蔵のお祭りには年々たくさんの参拝者が増えている。『山に棲むなり』はこのお祭りのエッセイから始まる。

途中、お母さんを乗せていく宇江さんと別れ、われわれは熊野古道を歩いて蛇形地蔵を目指す。道は本当によく整備されている。今年の春はどこも早くやってきているらしく、ここの山の桜も満開だ。お祭りが始まる前に、湯川王子跡や後鳥羽上皇や貴族のお休み場所と伝えられる広大な石垣を見る。

湯川王子跡の横には「湯川一族発祥の地」と書いてある石碑が立っている。湯川姓が集まる「湯川会」という集まりもあって、その名誉会長はあの湯川秀樹博士の未亡人がつとめているという。

びっしりと植林されたうす暗い森から蟻の熊野詣といわれた往時の賑わいを想像するのは難しい。わたしは、かつて山尾三省さんと二人で縄文杉を目指した時を思い出す。あそこにもかつてそれもわずか20年まえに賑わった林業事業所の町、小杉谷の集落跡があった。残っていたのは、タイルの台所の流しや小学校の門とグランドだけ。あとは一面に植林された樹木で封印されていた。

木立の中の地蔵さんの前での読経が終わると、みんなぞろぞろ川原の広場に降りていく。そこにはパイプの櫓が組んである。世話人が何人か上にあがり、宇江さんの法螺貝を合図に、恒例の餅まきが始まる。ビニールに包まれた小さな餅は固くて、体に当たると痛い。それでも子供らと競うよう餅を取り合う。それが終わると、満開の山桜の花の下で、お昼となる。ビールとお酒がうまい。

5月中旬にまた熊野にくることになりそうだ。今度は札幌から編集者の室野井洋子さんも合流するはずだ。「宇江敏勝の本」第6巻『若葉萌えいづる山で』が初夏には刊行される。今回の熊野行は増補する新原稿の打ち合わせが主要課題。蛇形地蔵から帰って、さっさと済ませる。5月半ばには、新原稿の校正が終わっているはずだし、カツオがメチャメチャにおいしい頃だ。

夕方、近露王子跡にちかいJRバスの停留所まで宇江さんに送ってもらう。バスが来るまで、目の前にある旧家の250年以上の樹齢といわれるシダレサクラを庭から見せてもらう。この静かな町でも、自治体合併の話がおきているそうだ。実現すれば日本一の面積をもつ市になるとか。

帰路はバスで田辺に行き、白浜から飛行機で55分の旅だ。

参考URL:
和歌山県西牟婁郡中辺路町近野中学校ホームページ
http://www.aikis.or.jp/~chikano/

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