vol.35

谷村彰彦   [2002/02/21]

グラフィックデザイナーの谷村彰彦さんが2002年1月29日に亡くなった。享年54。2000年の10月に脳外科手術を受けたあと、順調に回復し仕事にも復帰したと思っていた矢先の死だった。

その一日前に杉浦康平さんから電話をもらった。谷村さんの病状が重篤であること、みんなには突然のことと思うかも知れないが、実は一昨年前の脳の手術の際に医者から余命数カ月といわれていた、ほんとうにがんばって療養につとめ、ここまできたのだといわれた。昨年の春によくなったと電話があり、彼の事務所に行き、近くの定食屋で昼ごはんを食べて以来、私は谷村さんに会っていなかった。

谷村さんに最初に会ったのは、杉浦事務所で、私は平凡社の百科年鑑編集部員。彼は 毎日グラフの編集部にいながら、大学で師弟関係にあった杉浦康平さんの仕事をときどき手伝っていたようだ。そのうち、谷村さんは杉浦事務所からの出向のような形で百科年鑑の編集部の嘱託になり、杉浦さんが提案するデザインプランを媒介に私が平凡社を辞めるまでの7年の間、私たちはほんとうに濃密な時間を過ごした。一緒にいる時間は家族以上に長かったような気がする。

平凡社の百科年鑑は1970年代の日本の書籍デザインワークの一つのピークを示す作品群だと思う。さまざまな編集デザインの試みがなされた。ワープロもパソコンもない時代に、野心的な試みが毎年くり返された。20代の私たちは杉浦さんたちとのキャッチボールが楽しくて、いままでの真っ白なような百科事典の紙面にさまざまな凹凸をつくった。

私は、ジャーナリステックな百科事典の構想に関心があった。それも「一年遅れのジャーナリズム」をどう表現するのかに特別の精力を注いだ。無味乾燥な百科事典にしきりに傷をつけ、瘡蓋のような時代の刻印を付けようとした。

そのころ日本では『ぴあ』をはじめ、情報の平準化と検索をめざす媒体が登場してきた。一番意識したのは1968年にアメリカで刊行が始まったスチュアート・ブランド編集の『ホール・アース・カタログ』だった。Access to Toolsが彼のコンセプトだが、百科年鑑では道具のかわりに、情報の整理、知識の相関へのアクセスを目指した。

今考えると編集部は杉浦さんのレベルにはるかに達せずあのプロジェクトは終わっていたのかもしれない。本文テキストの水準が杉浦デザインマインドに追いつけなかった。しかし、私たち編集者は杉浦さんに徹底的にしごかれた。書籍を読者と著者を結びつける多面的、構造的なオブジエとして。冗漫な大量な文字よりも、これを視覚化し、フロー化、構造化すること。とくに百科事典などのレファレンス系の書籍にはこのことがいかに大事であるかを具体的に教わった。

立花隆さんを巻き込んだロッキード事件マップ、赤瀬川原平さんとの世相マップ、高木仁三郎さんとの原子力問題マップなど数々の「傑作」が生まれた。われわれは70年代にすでにマルチメディア的な編集の実験と精緻な表現の達成を経験しているのである。 ハイパーリンクなどのことばを使う前に。

1980年代に「ぴあマップ」で大活躍したモリシタの森下暢雄さんもこの百科年鑑で杉浦さんの厳しい要求に応えた。なにしろMacもない時代、地図や図版はすべてスクライブしてつくる。文字どおり手作り。7Qの文字でもコンマ以下の線でもすべてかけ合わせの杉浦さんのこと、色分けされたスクライブの版数は数十版というすざましい数になった。校正で赤が入ればほとんどの版が作り直しだ。明け方に北区にある校正所に行ったことが、なぜかいま鮮明に思い出される。

印刷所には時間的な(実は能力的な問題があって杉浦さんたちの要求に応えられなかった)制約などがあったので、すべてフィルムまで仕上げて搬入するスケジュールが立てられた。4月末の発売にあわせていつも2月、3月は、写植屋さんとモリシタなどの製版所と杉浦事務所を駆けずり回るのが編集者の仕事だった。すべて張り込みの完全版下を作成したわけだ。いまのことを考えると信じられない仕事だった。

谷村さんは百科年鑑のなかにありながら、先端的な杉浦さん(そして中垣信夫さんやそのあと中心になったのが鈴木一誌さん、海保透さん、赤崎正一さん)と守旧的な平凡社の編集部、製作関係、印刷関係の間にたって、ものすごく苦労したと思う。しかし、みごとな仕事をした。 谷村さんは頑固であったし、筋を曲げない人であった。その意味では杉浦さんのデザインポリシーが不完全ながら百科年鑑で実現できたのは彼のおかげだろう。

平凡社での谷村さんの仕事は百科年鑑のほかに、テムズ・アンド・ハドソンのシリーズ "Art and Imagination" の翻訳『イメージの博物誌』の造本がある。このシリーズは70年代後期から80年代にかけて図像学的なアプローチとして一定の影響を世間に与えた。私とは石子順造さんの『ガラクタ百科』を、石子さんが亡くなった後、まとめた仕事がある。この本が付き物のデザインを一新して22年ぶりに再版された直後に、彼は倒れた。

いま新宿書房の図書目録を眺めている。谷村さんに本のデザインをお願いしたのは、8冊ある。

生活のなかの料理学』(1982)

踊る日記』(1986)

仮面の声』(1988)

パルンガの夜明け』(1993)

ビルマの民衆文化』(1994)

神の乙女クマリ』(1994)

見世物小屋の文化誌』(1999)

見世物稼業』(2000)

このうち、最初の3冊は彼が平凡社の百科年鑑編集部から杉浦事務所に戻ってからの仕事である。『踊る日記』は山形県大蔵村の役場の職員であり舞踏家でもあった森繁哉さんの踊る野帳だ。活版印刷。本文の小口やノドの余白には活版のインテルがまるで木っ端の判子のようにあしらわれている。刷り色は茶に近いレンガ色。

3冊目の『仮面の声』は横浜ボートシアターの遠藤琢郎さんの戯曲集。このころには谷村さんは杉浦さんの事務所の番頭としてアジアにむかってさまざまなデザインの仕事をしていた。京劇、マンダラ。台湾、韓国、中国にも足しげく通うようになった。 ネワ-ル、ビルマ、ネパールの3册は「双書 アジアの村から町から」のシリーズの本で、杉浦事務所を独立してからの仕事だ。

最近の見世物の2冊。『見世物小屋の文化誌』は谷村さんの仲立ちで、坂野比呂志大道芸塾(浅草雑芸団)の上島敏昭さんを紹介してもらったことから生まれた企画だ。谷村さんの割り切りのいい、シャープな造本になっている。

さよなら、谷村さん。

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