vol.30

カーブル幻景(1)  [2001/11/30]

インドを旅行するには最悪の季節だという6月のデリーに数日間滞在する。朝晴れているかと思うと、午後ざっと雨がスコールのように降る。体感湿度100パーセント。モンスーンの季節なのだ。

気候も人々の視線もじっとりと暑苦しいインドからアフガニスタン国営のアリアナ航空(1)に乗り、カーブルの空港につくと、空気は乾燥しすがすがしく、人々の表情も和やかで、いっぺんにくつろいだ気分になる。標高1800メートル、夏の8月の月平均湿度が25パーセントというからそれは気持ちがいいわけだ。

(1) アリアナ航空の現状である。 
http://miiref00.asahi.com/international/kougeki/K2001102202772.html

カーブルは60年代の終わり頃、インドのゴア、ネパールのカトマンズとならんで「ヒッピーの3大聖地」と呼ばれたことがあるそうだ。(2) 彼らの大好きなハッシシーがかの地にはふんだんにあったことは当然としても、それだけどの町も彼らを歓迎する優しい土地だったのだろう。

(2) 沢木耕太郎の『深夜特急』にはカトマンズ、マラケシュ(モロッコ)、ゴアが3大聖地としてあげられている。他にバリを入れる人もいる。どれもだれにとってもステキな町だ。

カーブルに向かう飛行機の窓から標高7000メートルを超えるヒンドゥークシュ山脈がはるか遠くに見える。横たわる。ケーキのパウダーをふりかけたような灰色のはげ山が、まるで紙の衝立が折り重なるように果てしなく累々と続いている。この死んだような山々はどこまで続いているのだろうか。遠く西はイランからトルコまで、さらに北はパミール高原から中央アジアの平原まで続いているのだろうか。

カーブルの飛行場は砂漠のなかにあった。低い空港ビルがポツンとあり、われわれ乗客はジェット機のお尻の出口にあるタラップから降り、強い陽射しの中のエプロンを歩いて、その建物に向かう。通関をすぎると一緒に降り立ったアフガンの乗客たちは、いつのまにかまるで霧が消えるようにいなくなり、われわれだけが取り残される。ここにはデリーの喧騒と強い匂いもない。そして、女性の姿もない。目の前に並んでいるタクシーの1台にそのまま考えることもなく乗り込み、予約してある市内のホテルへ向かってもらう。

ホテルは市内の中心地から少し離れた新市街のはずれにあった。朝早く起きると、近くの街角にある高いやぐらの上にあるスピーカーからお祈りが流れてくる。あとで知ったことだが、新市街が平坦な土地に比べて、旧市街は岩だらけの山に囲まれている。そのゴツゴツした山の裾野からかなり高いところまで家々が建てられている。あんな高いところの家では、水をどうやって確保しているのだろうか。

私と父は、ホテルに着いてから、革命新政府のある人物にコンタクトをとろうとしていた。今考えると、あんなに慎重な父がどうして十分な見通しもなくカーブルにやって来たのか、よく分からない。記録映画、文化映画のプロダクションを経営していた父は、結核の治療のためアフガニスタンに派遣されて、ここの村々で仕事を続ける日本人の医師や看護婦の記録映画を企画していた。

しかし、アフガニスタンでは数カ月前(1978年4月)にクーデターが起きたばかりだった。5年前に無血クーデターで国王を追放し、王政を廃止して共和制に移行させ、自ら大統領に就任したダウドが、暗殺された。クーデター後はソ連寄りの社会主義政権が樹立されて、タラキが革命評議会議長に就任していた。

まさにクーデターの余燼がくすぶっているカーブルにやって来たのだ。街のあちこちに壊れたタンクやトラックが放置されたままだ。政府は混乱していて、十分機能しているわけがなかった。現地にいて窓口になってくれた日本人医師の仲介で保健省の高官にようやく会うことができたのは、カーブルに着いてから3日目の午前中のことだった。

当時の在日アフガニスタン大使館は原宿の表参道と明治通りの交差点に面したビルの2階にあった。ビルの窓から国旗を通りに出した、事務所のように狭い大使館では、人のいい臨時大使がたった一人で事務をこなしていた。ここで貰ったのは、わずか1週間の滞在ビザだった。

1週間の滞在時間がどんどんなくなってくることに、われわれは焦っていた。ともかく撮影の許可を手に入れ、ロケをする村や病院を紹介してもらい、日本からの撮影隊がすんなり入ることが出来るように段取りをしておきたかった。案内された保健省は、日本の公団住宅のような建物で、軍服を着た高官は今はともかく仕事の引き継ぎも終わっていなくて、決定をしたり、許可を下ろすことはできない、という。社会主義政権になったのだから、全ての高官が入れ代わったのだろう。

間にたってくれた日本人の医師も腰が引けて、熱心に取り次いでくれない。これで、この旅の目的は終わってしまった。その医師に、今のこの国の状態ではとても撮影は無理だと手紙で申し上げたはずだと厭味をいわれた。われわれも日本の海外援助の実態とそこで働く日本人の嫌なところをこの3日間で、全部見た思いだった。滞在している日本人医療チームも浮足立っているようだった。最悪の時期に来てしまったのだ。ホテルに帰った父はそのまま昼寝をするといって部屋に引き籠もり、その晩にあった日本大使館の寿司パーティにも顔を出さなかった。

昼間の眠るような静かなホテル。薄暗いロビーをウロウロしているうちに、「バーミヤン(3)1泊2日のツアー」のパンフレットをみつけた。ダウンタウンの国営ツーリストで扱っていると書いてある。あと4日間をどうしようか。そうだ、気分をかえて、観光旅行に行こう。さっそくホテルの前に溜まっているタクシーをひろって、ダウンタウンを目指した。

(3) 関健一さんという写真家のサイト。われわれがカーブルに滞在した1年前の撮影だ。
http://www7.gateway.ne.jp/%7Es7q/afghan/index.html

vol.31 カブール幻景(2)につづく]

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