vol.24
山尾三省 (2) [2001/09/12]
11時をだいぶまわり、告別式が終わって、出棺。三省さんの戒名は生前、自身で考えていたものだという。「三信院永劫光明帰命居士」。急坂を男たちがそろそろと降りてゆき、三省さんの入った柩は下で待っている霊柩車に納まる。遺影と位牌がないと、だれかが急いで取りに登って行く。霊柩車を坂の上から参列者が見下ろすような配置のなかで、喪主の春美さんが挨拶をする。
小学生の3人の遺児を横において、春美さんは挨拶を始めた途端に嗚咽で言葉がでなくなる。どうなるか皆をはらはらさせたが、すぐに立ち直って、みごとに次のようなことをいわれた。それは、三省さんが、6月にある雑誌からリレーエッセイ「父の遺言・母の遺言」の原稿を求められた際に、これを「子供達への遺言・妻への遺言」という題にかえて書いたという、エピソードだ。それは次のような遺言だった。
第1の遺言。生まれ故郷の東京の神田川の水を、もう一度飲める水に再生してほしい。あの水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初(ごうしょ)に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時になる。
第2の遺言。この世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしい。自分達で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると考える。
第3の遺言。南無淨瑠璃光・われら人の内なる薬師如来。われらの日本国憲法の第9条をして、世界のすべての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。
最後に三省さんは、「あなた方は、この3つの遺言に責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。」と結んでいる。
そして、おわりに春美さんは力強く、これから一人でも多くの人に三省さんの文章を読んでほしい、それが三省さんの言葉と思想が永遠に生きつづけることになります、どうかよろしくお願いします、と挨拶を結んだ。
三省さんは何冊の本を遺したのだろうか。野草社(新泉社)の石垣雅設さんはたちどころに34冊と答えてくれた。東京に帰ってから、インターネットの国会図書館のサイトで検索すると、山尾三省著、共著、共訳など33件が表示される。このうち、『縄文杉の木蔭にて』は増補新版も入っているので、これを除くと32冊か。それに、2001年夏の最後の2冊『リグ・ヴェーダの智慧』と『森羅万象の中へ』を入れると、そう34冊の本を遺したことになる。
私が出した本は先述した『縄文杉の木蔭にて』(1985)『縄文杉の木蔭にて』(増補新版、1994)そして『回帰する月々の記』(1990)だけである。どれも「生活者」時代の三省さんの代表作だと思っている。そのなかで、最初の『縄文杉の木蔭にて』に収録し、二つの本をつなげる意味で三省さんのたっての希望で『回帰する月々の記』の冒頭にも重複して収録したエッセイに「晩御飯」がある。これは、私がもっとも好きな文章である。
3月25日、終業式が終わって、子供達がそれぞれの成績表をもって帰ってくる。その日の晩御飯でささやかながらお祝いをする。妻がスシを握る。三省さんが子供達に語りかける。そして、最後にこう言う。
マツオのにぎりズシと、黒魚のアラの吸物の祝いの食卓に向かいながら、僕がひそかに思っていたのは、ここに居る子供達の一人でも二人でもいいから、怠惰や敗北感からではなく、積極的に大学進学などを選ばず、本当の希望において、手職の仕事に就きたいと願う子供が出てこないか、ということであった。僕が自分でそうであると自認している、この詩人という仕事もむろん手職の仕事に属するのだが(体を動かさない机上の詩人とは、詩人の堕落である)、それも含めて手職の仕事に、次代の夢を託したいのであった。
たとえばそれは、次郎、お前は、船乗りにならないか。海を見つめ、海と語り、海が神であると深く識る者にならないか。
たとえばそれは、踊我(ヨガ)、お前はパン屋にならないか。パンを焼き、パンを売り、人々にパンという幸福を供するものにならないか。なぜなら、お前が一番望んでいるものは、幸福と呼ばれる光、であるように僕には感じられるから。
良磨(ラーマ)、お前は焼物師にならないか。沖縄にでも行って、優れた琉球焼の伝統を身につけ、土と火が、慈であり悲でもある真理を、探りつづけてみないか。そしてまた、女の子である裸我(ラーガ)、お前は僕のあとをついで、百姓でありながら詩人でもある旅を、女の側から歩いてみる気はないか。生きることは、自然への永劫回帰であると、僕とは別の言葉で語ってはくれまいか。 |
この文章に出てくる子供達はみな大きくなって、私達の前にいて、いま父と最後の別れをしようとしている。三省さんには、先妻順子さんとの間に4男、友人の子供を引き取って養子にした1男1女、そして今の奥さんの春美さんとの間に2男1女、合計9人の子供がいる。この9人の子供達も、鹿児島や大阪やアメリカから父の葬儀のために、連れ合いや子供たちを連れて、全員ここ屋久島に集まっている。
われわれは、白川山を下りて、一湊の町に出た。今度は時計回りに島を回り、空港も通りすぎ南の隣町にある、火葬場に向かった。
参考URL:
国立国会図書館
http://webopac2.ndl.go.jp/ows-bin/list.cgi?TMPFILE=tmp_8569_2365&DISP=20&IDX=0
[「三栄町路地裏 vol.25 山尾三省(3)」につづく]
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