vol.21

郵便配達(1) [2001/08/15]


父が死んで初めてのお盆を自分の故郷で迎えたいという母を連れて、神奈川のI市に行った。といっても死んで4カ月もたった今もまだ墓も買っておらず、父の遺骨は家に置いたまま、ともかく故郷の実家に行こうといのだ。とうぶん、墓のことなど考えたくないという。父の体調がおかしくなって、死ぬまでの半年のあいだ、家からほとんど出られなかった母がまず欲しいのは息抜きなのだろう。彼女に必要なのはこの時期に集まる故郷の姉妹とのおしゃべりと昔ながらの味付け料理なのだ。

こちらも、仕事が溜まっているという家人をおいて老犬と私のみ。母とふたり、旅をすることなど、何十年もなかったので、気が重かったが、この老犬の存在はほんとうにありがたかった。承知で大渋滞のなかに車を入れたわけだが、狭い車の中で、私と母のあいだで彼は十分に自分の役割を果たしてくれた。

I市は丹沢山系の主峰の山麓にひろがる田園都市、かつてはそういわれてきた。いまは、東京のベッドタウンとして、猛烈な勢いで宅地が開発されている。翌朝、老犬を車に乗せて秦野の奥のヤビツ峠へ向かったが、その途中にある展望台からみた光景は忘れがたい。眼下に広がる相模平野はどこまでも白いマンションや家々で埋め尽くされ、緑で目立つのは大きなゴルフ場ばかりだ。相模平野を2本の高速道路が東西に切りさいている。そこにさらに第2東名まで計画されているのだ。

私たちがかつて住んでいた小さな家から、大海原のように広がる緑の田圃なかに、母の実家のある集落がぽつんと島のように見えた。それが、今はマンションや分譲住宅に変わり、緑の田圃はすべてなくなった。こんもり木の茂った集落は新興住宅の藻屑のなかに消えた。

国道沿いには、自動車販売店、あらゆる安売りショップ、郊外レストラン。日本中どこにでもみられる色彩と雰囲気をもつ、小田光雄の描く『<郊外>の誕生と死』や都築響一が日本中から採集する画像と寸分違わないロードサイド風景を造りだしている。

私は小学校一年の夏までここにいた。先日、ジョン・ダワーの本を読みながら、そのころのことを思い出した。当時の国道は砂利道だった。今は旧国道は県道となって間道になっている。村のはずれを大きく蛇行してしている国道からは、晴れた日は、たまに車が通るたびにものすごい土埃があがるのが、家の縁側からはっきりと見えた。車が走るとこれを追いかけるように、白い土煙が長い長い筒のようになって横に流れていく。夜になるとすざましいほどの数の戦車やトラックが大きな地響きをたてて通っていった。その赤いテールランプやヘッドライトの白い光がまるで帯のように長く続いていた。街灯一つない村の漆黒の夜、それは美しい光景だった。

今いろいろ調べると、この時は朝鮮戦争が勃発したころのようだ。赤い灯や白い光は厚木基地と富士山麓の演習場を行き来する米軍の移動する軍用車の列だったのだ。翌朝、ふたりの兄に手を引かれて、小学校に向かうとき、ちょうど国道が一番大きく曲がるあたりには、何台かのジープや軍用車が、青々とした田圃の中に落ちたまま、放置されていた。大人たちは、演習で疲れた兵士が居眠りして、田圃に突っ込んだよ、と噂をしていた。そのうち、ジープはいつの間にか姿を消していたし、田圃の稲の所有者にはどのような補償がされたのか、だれもわからなかった。しかし、田圃にはいつまでも、油の浮いた大きな穴が残った。

当時、集落は孤立的に点在していた。たとえば正月15日のドンド焼きの時など、竹や草で造った神輿を部落の境の路上でぶつけあい、そしてお互いに火をつけ、正月のお飾りを燃やし、餅を焼く。その手作りの神輿が相手の集落の若者に壊されないようにと子供たちは不寝番に立った。子供たちにも集落の間には競争的、対抗的な緊張関係があった。私たちは他の集落前では足早に歩いた。

それらの集落を自由に行き来でき、さまざまな情報を伝達していたのが、越中富山の薬売りと郵便屋さんだった。富山の薬売りは、年に一度はやってきて家に常備してある薬を補充し、その差額分を請求した。独特の配置売薬(置薬)の商売をした。富山の薬売りについては、玉川しんめいの『反魂丹の文化史 ― 越中富山の薬売り』(晶文社)に詳しい。この本で、富山の薬売りの人が、担当が変わっても引っ越し先までも追いかけてきたことの理由が、ようやくわかった。得意先の名簿は一種の営業権だった。彼らの運んでくるニュースはネーションワイドなもので、それだからこそ、人々はかれらの話を待ち望んでいたいたのだろう。

もう一人のニュース配達人は郵便屋さんだ。明治に郵便制度が確立した際には、「郵便配達夫」と呼ばれ、制服も定められたそうだが、いつまでそう呼ばれてきたのかはわからない。いまは、肉体労働に従事する人を意味する「夫」のつく職業、人夫、坑夫、清掃夫などの表記をきらい、それぞれいいかえているところをみると、今は郵便配達夫とは言わないらしい。いろんな辞書をみても、たんに郵便配達か、ほかに郵便配達人、郵便集配人などとも表記している。私たちは郵便屋さんと呼んでいた。

その郵便屋さんは、私にグリコのオマケの懸賞で当たった小さな黄色の望遠鏡を届けてくれたし(その宝物をわずか数日で川の中に落としてなくしてしまった!)、これが新しい硬貨だよといって、ピカピカに光る十円玉をそっと握らしてくれた。村には幼稚園や保育園というものがなかった。小学校に上がる前、二人の兄が学校に行くと、家には私と母だけが残る。母は繕いものや洋服の仕立てに忙しい。(子供の服はすべて母がつくった。そして末っ子の私の服はすべて兄たちのお古だった。そんな時代だった)わたしの楽しみは、午後に来る郵便屋さんを待つことと、ラジオを聞くことだった。

郵便屋さんは、革の肩掛け鞄を下げ、歩いて来たか、自転車に乗ってやってきた。大人で一番の仲良しは郵便屋さんだった。郵便屋さんが来るまで、そして兄たちが学校から戻るまで、私はラジオを聞いた。母と一緒に聞いたのだろう。そのうち、私は一週間の番組を空でいえるようになった。

こんな時間を、私に思い出させてくれたのは、ジョン・ダワーの本と先日、岩波ホールでみた中国映画『山の郵便配達』のせいだ。(この頁つづく)

注- すべてがあいまいなまま書いているので、不正確なことが多いと思う。小田急線の車両に進駐軍専用車両があったことや、駅前で見た木炭バスのことなど、さまざまな記憶の断片を一度ゆっくりと調べたい。

参考URL:

富山の薬 置き薬 常備薬 http://www.iijnet.or.jp/KUSURI/

グリコ江崎記念館 おもちゃの歴史
http://www.glico.co.jp/kinenkan/omocha/omocha1.htm

日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
10円玉が1951年(昭和26年)に発行されたことがわかった

写真館:「10円玉コレクション(?)」
http://homepage1.nifty.com/funeral-uwo/froom/fr-a03.htm

画像の強さ。最初の10円玉が見られる

逓信総合博物館 制服うつりかわり
http://www.iptp.go.jp/museum/history/uniform-001.html
ここでは、「郵便外務員」と総称され、集配人、逓信人、郵便夫にわけられている


[vol.22 郵便配達(2)につづく]

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