【西井一夫通信 7/26/2001】
皆様くそ暑い熱帯と化した日本でどのように生きていらっしゃいますか?私めは、いよいよ癌細胞が再発し、増殖を始めたようで、7月から、食物が喉下で詰まる事が多くなり、又、7月半ばからは、水分を摂取するとむせる、事態となり、23日からは、水分をほぼ取れなく成る事態になりました。
これらは、確実にこの1月に経験した「いつか来た道」です。腫瘍が肥大して、気管に到達した結果だと、思われます。で、この猛暑ですから、脱水症状にならぬようにと、先手を打って、24日から近所の医院で、朝夕の点滴を受けるようにしました。ビタミンとブドウ糖を二本、大体2時間くらいかけて落とします。途中で寝てしまうコトもあります。ま、これで、ともかく、8/1の吉野行きまで、だまし、だまし、やって行き、ともかくあっちへ行ってしまう、という作戦です。8/2には、天理病院での診察の予約をとっていますので、私のつもり、としては、可及的すみやかな入院で、まず、食道ステントを入れる、それで、多分飲み食いできる状況にもっていく。その後、癌の撲滅にかかるわけですが、近代医学の現段階の水準では、私の癌に対して、放射線治療は既にこの入院中にほぼ使いはたしている為使用できず、しかし、食道癌には、抗ガン剤も百害あって、一利なし、といわれるほどで、ならば、やらないほうがよいとの判断で私が選択肢からはずすので、手術しかないが、これは、一番最初にはずした選択肢なので、結局今医療が打てる有効な治療はなさそう、という極めて絶望的状況です。
先週まで、佐賀の方から漢方の薬を送ってもらい大変な思いで飲んでいたのですが、味の凄さと水分がとれないので、結果全ての薬が飲めなくなりました。アガリスクの煮出したものも、咽せてのめません。したがって、こういう時の唯一の藁である、民間療法も私の場合つかえないので、本当に八方塞がりです。ともかく、色々先々を考えようにも、先が細いので考えようもなく、今は、ステントが入って、ビールが又飲める時だけをイメージして耐えて行くしかありません。なんていじらしい。いずれにしましても、皆様、これで、多分お別れです。今は、8月の御盆過ぎに一度帰京し、末に本格引っ越しの予定でつもりしています。
東京で生まれて東京で育ち、東京で暮らして来た55年でした。その東京に「おさらば」する時が、実は、弧の世ともおさらばする時だったとは、思いも寄らなかった。しかし、これも、運命だ。受け入れざるをえまい。心残りとか、残念といった種の感情は不思議な程ない。多分、「20世紀の記憶」20巻を刊行し終えたという事実がそうさせているように思えます。これを創り、編集する過程で起きた様々な苦難が、最終的には、強いストレスとして、この癌を生んだ、と私は考えています。
命を張って編集した、なんて言うと格好よすぎです。偶々運良く、あるいは運悪くそういう巡り合わせになったに過ぎない。でも、最後に又いっておきたいけど、いやな会社だった、有能な連中は次々と去って行き、どこも拾ってくれそうに無い「阿呆」ばかりが、無為徒食を決め込んでいるような職場環境だったし、私の後半は、純然たる「孤立無援」だった。独立愚連隊などとは、全然違う。「戦後50年」の時、営業が、取次ぎの馬鹿な物知らずの仕入れ課長の言った言葉を真に受けて、「戦後50年」というタイトルネーミングには、「戦争」の「戦」という字が入っているから、「暗い」「マイナスイメージ」だ、と言って、「戦」を使わないネーミングにできないか?と真顔で言って来た。そんなものくだらぬ、いやがらせの一つなのに、営業の連中は、「愛と平和の50年」というどこかの大宗教団体の好みそうな馬鹿馬鹿しい嘘っぱちのタイトルを提示してきた。あの時私は、心の底からああ、こんな阿呆共と仕事するのは、つくづくいやだ、と思った。もっと、議論してしがいのあるツーと言えばカーの奴等と仕事がしたかった。毎日の出版は、カスばかりだ。ああ、いやだ。しかし、もうやめたんだった。それでも、こういう話しをすると、今も頭に血が上る。もうよそう。こんな阿呆の話しは。続ければ、本一冊以上になるのだから。
ともかく、32年間勤めて、昨年末で選択定年退職し、退職金が、住宅ローンと引き換えに無くなった。その途端に食道癌だって。いい運してるぜ。そんなこんなで、ったって、何が何して何とやら、ともかく、3年前に吉野に巡り会ってしまった。河瀬直美の「萌の朱雀」で見た吉野の光景が忘れられず、そこに、大学からの奇友・瀬下恵美さんから、匠の聚とそこに暮らす画家・小西保文先生の導きにより、川上村の村民に迎え入れてくれる次第となったのでした。
この間、匠の聚には、学友の武藤斌も常に共に着いて来てくれ、知恵を貸してくれました。このように、具体的に名前を挙げて一々列挙していけば、限り無く、申し訳ない。従ってここでは、略させていただく。といいつつ、そういかぬ、自分がいる。入院中の言葉で語り尽くせぬ数々の恩義・人情は、感謝感激雨霰だ。有難う。特に、この9月中旬から、イメージ・フォーラムで、レイトショーで公開される「≒森山大道」というドキュメンタリー映画に出演させてもらって、元気な頃の私の最後の映像を残せた事は、望外の喜びです。もし、ですが、私の姿を見たい人がいれば、この映画を見れば、いつでも見られますよ。映画での遺影です。よろしく。
問い合わせ=03-5766-0114、連日夜9:00より。
ここで、長い間付き合っていただいた森山さん、荒木経惟さんに最大の感謝を捧げたい。あなた達二人は、今の世で一番すてきな芸人だったと確信しています。有難う。近親者には、又別に書くので、ここは、本当にこれまでにさせてもらう。
これは、遺書じゃない。慶応義塾大学以来、驚く事に私が入院中に見舞いに突然現われるまで、ほぼ30年近く音信不通で、会っていなかった、安田荘助と長い年月の空白と不在を互いの心を開いて再会し、気分のよい会話が可能になった最新の友人に感謝、そして、藤田省三さんの学外勉強グループからのやはり長くつらい、期間を経て尚私に好感を持って下さった鈴木了二、私の本のデザインをしていただいたことから、仕事まで引き受けてくれた鈴木一誌、有難う。こんな風に、有難うを連発している時は、全然別のことがひかえているのが、常だ。でも、御安心。死期の見えた者として、悪どいコトは考えていませんよーだ。
さて、吉野の連絡先もちゃんとここに、付け加え解きますよ。
移転先=〒639-3541 奈良県吉野郡川上村大字東川135匠の聚
TEL/FAX=07465-3-9000 携帯は通じません。
Email=QYJ05562@nifty.ne.jp
これからは、写真の会・会員叉は、国境なき写真家旅団・事務局長を使用します。
HOMEPAGE=http://homepage2.nifty.com/bpbrigade
アクセスしたら、挨拶くらいして欲しい。
それでは、皆様、ご機嫌よろしゅう、さようなら。いってきまーす。
西井一夫拝
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