Vol.48 [2003/1/12]

小林トミさん

わが町・浦安』の著者、小林トミさんが2003年1月2日の朝、亡くなった。昨年電話でお話した記憶がある。新聞をみて、びっくりした。しかし、ずいぶんお会いしないままのお別れになってしまった。

『わが町・浦安』は1983年11月に刊行されている。A5変型判で装丁は田村義也さん。田村さんの著書『のの字ものがたり』(1996年、朝日新聞社)にこんなくだりがある。少々長いが引用する。

小林トミ『わが町・浦安』。編集者は百人社から新宿書房になった村山恒夫氏。
著者はあの60年安保の「声なき声」の代表者であって、その頃からの知人である。私たちは毎日のように国会議事堂のまわりでデモをしていたが、やがて日高六郎編『一九六〇年五月一九日』(岩波新書)を企画した。(中略)

さて、この本は小林トミさんが少女時代を過ごした昭和十年代前後の千葉県浦安の風景を綴ったふるさとの物語である。貝を採り、ノリを養殖する漁師町のたたずまいが描かれる。だから、高校の絵の先生であるトミさん自身が描いたカットを、枠に入れてカバーに散らすことにした。

表紙の方は、むかしの五万分の一の地図。東京と千葉を分ける江戸川河口の泥が不定形な沖積地の曲線をつくっているのが面白い。(中略)

見本が出来上がって、久しぶりに小林トミさんと村山君の三人で、水道橋近くの鳥安で、ささやかな乾杯をしたことである。

田村さんはこのころ、まだ岩波書店の編集部に在籍されていたし、トミさんは都立九段高校の定時制で美術の先生をしていた。カバーの絵もいいが、本表紙の青に白抜きの地図はほんとうに傑作な装丁になった。

『わが町・浦安』には栞の「日没国通信」第4号が挟まれていた。久野収さんは「ライフスタイルの民主主義-小林トミさんのこと」というエッセイを寄せてくれた。

「自分の直接経験を大切にし、とりわけ、人々との直接のふれあいを大切にするトミさんの市民的ライフスタイル」だからこそ、「声なき声」の運動が20年も続くことができたという。

それから、さらに20年。「声なき声のたより」の最終号となった98号のことは、このコラムVol.46でふれた。北柏での葬儀には、鶴見俊輔さんや吉川勇一さん、阿奈井文彦さんや木村聖哉さんなどの顔があった。

「声なき声」の運動は1960年6月4日、映画助監督の不破三雄さんと小林トミさんの2人が「誰デモ入れる声なき声の会」と書いた横断幕を掲げて、虎ノ門から国会にむけて歩き出すことから始まった。

実はずいぶん前、1冊になる原稿の束をわたされ、読んだ後、さんざん悩んだうえ、トミさんに返したことがあった。結局、それはどこからも出版されなかった。私は、お通夜の遺影に向かって、「トミさん、ゴメン」とあやまった。

さて、これから紹介するのは、栞の「日没国通信」第3号(1983年7月)に掲載されたトミさんのエッセイである。


[日没国通信第3号 1983・7・20]

西へ西へいくと箱庭があった 
小林トミ

 子どもの頃、私は漁師町で育った。貧しくておもちゃなど買ってもらったことがない。

 それでも近所の女の子たちとよく人形あそびをした。それぞれ空箱の中に、自分の大切にしている人形を持って集まった。人形といっても、キューピーとか、駄菓子屋で売っている紙の着せかえ人形、それに『幼女の友』から切り抜いたものだ。それは本の都合で、胸までのものや足までのものやいろいろあった。夜店で『幼女の友』の
古本を買い、優しそうな母親や会社員の父親、大人しい界の子かわいい女の子を、鋏で切り抜いて集め、みんなで自慢しあった。誰かが本物の人形を持ってくると、うらやましくて自分も欲しいと思ったが、高価で買った記憶がない。誰かの家やムシロの上で箱をひろげ、いくつもの部屋をつくった。マッチ箱をのりで貼ってタンスをつくっ
たりした。

 みんなの父親は漁師か行商人なのに、あそびのなかの父親は不思議といつも会社員だった。漁に出る話などでなく、映画や物語に出てくるような筋書きをつくってあそんだ。

 人形あそびは比較的に大人しい女の子のあそびで、大きくなるにつれ、私はあっちこっちを駆けめぐってあそぶようになった。そうなると狭い町中があそび場になり、学校から帰ると、別に予習、復習をするでもなく、毎日、赤い顔をして駆けめぐった。世界が広くなるようでいろいろなものが珍しい。

 町の中を流れる川にそって西の方へ行くと床屋があった。庭先に季節の植木がいろいろとあったが、私が長いこと坐って飽きずに眺めたのは、床屋の「箱庭」だった。かなり大きな箱に山や川がある。所々に橋があり、水車小屋やわらぷき屋根の家、そして五重の塔がある。あっちこっちに小さな木も植えてある。私はこれを見ていつも
感心し、床屋の前で眺めるのを楽しみにしていた。あの五重の塔はどうしてつくるのだろうか、とてもよくできている。わらぶきの屋根は本物のようだ。小さな杉や松をみていると、いろいろなことが想像できる。

 床屋の主人は朝顔もつくっていた。店に客のいないときなど、箱庭の川に水を流して子どもたちに見せてくれた。あるとき、いつものように箱庭の前に立ちどまり、見ると箱庭の様子がおかしい。あちこちが淋しくなっている。「箱庭がいつもとちがうね、おじさん」と誰かがきいた。主人は黙っていたが、「おじさんはね、兵隊にいく
んだ。だから箱庭とお別れなんだ」というのだ。子どもたちはシーンとしてしまった。主人は箱庭をいじっていたが、橋などを子どもたちに分けてやり、「姉ちゃんは箱庭が好きだな」といって、わらぶき屋根と五重の塔を私の手のひらに載せてくれた。私は遠慮したが、「いいんだ。大事にしなよ」といった。

 一目散に家に帰った。父に見せると、「どうしたんだ」ときくので、「西へ西へいくと床屋さんのおじさんに貰ったんだ」と答えた。嬉しかった。私は小さな箱に庭をつくり、五重の塔やわらぶき屋根を置いて楽しんだ。その後、各地を転々として歩いても大切に持っていたが、あの床屋のおじさんは戦争を無事に生き抜いただろうか。

 私はながいあいだ、町中を駆けめぐっていた幼い頃見たりきいたりしたことを書き
たいと思っていた。それがやっとできあがる。ぜひ、読んでほしいと思う。

(こばやし とみ/都立高校美術講師)

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