シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践
杉浦勉・東琢磨・鈴木慎一郎 編著

[bmr(ブラック・ミュージック・レビュー) 2003年6月号 ?298]

折衷・増殖・肥大化するラティーノ&カリビアン・カルチャー
個と文化、文化と社会の関係性を探る新型研究書

ニューヨリカンやドミニカンヨーク、チカーノまたはラ・ラサ??米国ではついにアフリカ系人口を抜いて“最大のマイノリティ”となったラティーノ(ラテン・アメリカおよびスペイン語圏カリブ地域からの移民)、そしてキューバやジャマイカのカリビアン・カルチャー。新出版社の新シリーズ「Flash! Forward」第一弾として刊行された本書のタスキには“強から弱への変奏(シンコペーション)の技法! ダンス・音楽・ライティング・信仰からみるマイノリティの実践の妙技!”とある。キューバのサンテリア信仰やスリナムのブラック・ミュージックなど興味深いルポはもちろん、本誌読者にとっては、都市空間におけるグラフィティの意味性、チカーノタチノ哲学とその現状、レゲエ〜カリプソにおけるルード・ボーイ精神、といった項目がとくに注目すべき点か。“周囲の「わけのわからないもの」を編集していく”というこのシリーズ、今後も期待しい。(編集部)


[remix(リミックス)?144 2003年6月号より](抜粋)

いまラティーノ/カリビアンを語ることの必要性、もしくは音楽が未来を紡ぐ可能性

「音楽とは予言的である」とはジャック・アタリの有名な言葉だが、たしかにいち部の敏感な音楽家は、その感じやすさゆえに思想家も言わないような大胆なヴィジョンを僕たちに投げかけることがある。その音楽には、空気中の振動から伝えられるその情報のなかには、それが鳴っている現在から大いに連なる歴史や文化がさまざまな位相で重層的に広がっているのだ。音楽に学ぶことの可能性のひとつがそれだ。

本書はラテン音楽ないしはカリブ音楽を中心に扱いながら、そのディアスポラの響きのなかにある権力に支配された時間帯の裂け目を差し出そうとする。

周知の通り、南米/中米は綿々とアメリカの政治的暴力を受けてきている。それから、アメリカにおけるディアスポラといえばアフリカ系と思い浮かんでしまう現状に向けても本書は警鐘を鳴らしている。編者のひとりである東琢磨氏によれば、アメリカにおいてはラティーノ人口はいまやアフリカ系を上回ったという。この単純な事実だけを挙げても、アメリカというこのとんでもない食わせ物の他者に、しかし他者としての憧憬を抱きながら歴史を重ねてきたこの日本のなかで、その他者の内部で苦闘する姿を黒人に求めすぎてきた僕たち自身もマイノリティーの問題をいまいち度捉え直すべきなのだろう。そしてそう、新たなパースペクティヴを手にするしかない。そのための視座が本書には散らばっている。だいたい<サブマージ>にだっていまやラティーノが3人いる時代なのだ。

本書においてもうひとつ興味深い点はそのタイトルに“文化実践”とあること だ。僕たちは日々の生活においてもさまざまな次元で外部と内部に区切られている。 会社の内部と外部、学校の内部と外部などなど。内部から見た他者性すなわち外部は程度の差こそあれ周縁化され、また内部における逸脱は程度の差こそあれ抑圧される。つねに他者(=外部)を捏造することで巨大化した権力の別ヴァージョンは僕たちの身近にも存在する。そこに裂け目を持たせることの実践。ラテン音楽やレゲエをはじめとするカリブ海の音楽から大胆な大らかさやエネルギーのようなものを僕たち
が感じ取るのも、それらが僕たちを包囲する文化的窒息感に裂け目を与え、思いもよらぬ新たな回路を見せてくれるからだろう。

最後に、本書は勉強にもなるが、15人の著者によるレポートからは音楽を敏感にびんびんに感じてしまう無償の愛のようなものまで聴こえてくる。

野田 努(のだ つとむ)


[FIGARO japon(フィガロジャポン)?249 2003年5月20日号]

移民の世紀に贈る、刺激に満ちた評論集
『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』

人間の歴史に決まった形はない。昔はよかったなどという感傷とはおかまいなしに、いまあるものは必ず変化する。それは人間が本来持つ、生きるための強さだ。アメリカでラティーノの人口が黒人を抜いたという。特に音楽やダンスやクラブカルチャーなど、生々しい人間性が表出する場所において、ラティーノの台頭は顕著。そうした状況を考える評論集だが、ここにあるのは、実は私たち自身の問題ではないだろうか。外国と日本、他人と私、女と男、他所とここ。新聞もテレビも、異なる者同士の出会いと衝突ばかり扱っている。日常を生きるヒントが、この本には詰まってい
るようだ。


[LATINA(ラティーナ)2003年5月号](抜粋)

シンコペーション。
音楽用語で「切分(法)」を意味する。本誌読者に詳説は無用だろうが、一般には「アクセントをずらすこと」と定義されるはずだ。印象深い、一種謎かけのようなこの書名は、UKの社会学者ポール・ギルロイの主著『ブラック・アトランティック』に直接的に啓示を受けている。

内容はおおきく分けて3つのパートからなる。エル・ノルテ=北米大陸におけるラティーノらの文化実践をまとめた「メトロポリスの圏内/外」。ホーム=アンティル諸島本国での動きを整理した「語りえぬ〈フィールド〉から」。国境を越えて拡散しつながってゆく文化実践をとらえた「トランスナショナルな同時間性」。

カバーする地域は広範だ。寒冷なる大都市トロントでカリビアンが繰りひろげる北米最大のフェスティバル「カリバーナ」の隆盛。そして南米大陸北岸のオランダ語圏スリナムの黒人音楽ブラカマン・ポクやビギ・ポクの不透明な実態。優に数千キロを超える広がりだ。

学問領域の境界を無化し、つねに変化しつづける彼の地の文化実践を‘生のまま’つかんできて250 ページに詰めこんだ、と形容すればいいだろうか。注釈や参考文献表示の不統一がみられるものの、脚注にリファレンスやキーワードを丁寧に提示し、読者の便宜を図ることもわすれていない。

単線的に想像される国家の時間感覚。社会ダーウィニズムの進歩主義がその根底に横たわる。そして国家的主流文化。そうしたわかりやすい仮構の文化を、まるで鋭利な匕首で切分しつづけるラティーノとカリビアンのリアルでわかりにくい営為。本書はまさに、ハート+ネグリが説く「〈帝国〉に抗するマルティテュード」の文化実践報告であり、外に向かってひらかれ、ざわざわと共振しあうテクスト群である。


[東京新聞・中日新聞2003年4月20日]

ラティーノはいわゆるヒスパニック、カリビアンはカリブ海地域出身者とその子孫のこと。これらの人々の表現芸術について、十五人の執筆者が自由な角度から論じた雑誌形式の本である。合衆国のラテン系マイノリティの音楽についての話題が多いが、宗教やフェミニズムに関する論考も興味深い。一面的な価値観では対処しきれない錯雑した世界がここにはある。(エディマン発行、新宿書房発売・二四〇〇円)

本の詳細を見る→<ISBN4-88008-290-2


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