いまラティーノ/カリビアンを語ることの必要性、もしくは音楽が未来を紡ぐ可能性
「音楽とは予言的である」とはジャック・アタリの有名な言葉だが、たしかにいち部の敏感な音楽家は、その感じやすさゆえに思想家も言わないような大胆なヴィジョンを僕たちに投げかけることがある。その音楽には、空気中の振動から伝えられるその情報のなかには、それが鳴っている現在から大いに連なる歴史や文化がさまざまな位相で重層的に広がっているのだ。音楽に学ぶことの可能性のひとつがそれだ。
本書はラテン音楽ないしはカリブ音楽を中心に扱いながら、そのディアスポラの響きのなかにある権力に支配された時間帯の裂け目を差し出そうとする。
周知の通り、南米/中米は綿々とアメリカの政治的暴力を受けてきている。それから、アメリカにおけるディアスポラといえばアフリカ系と思い浮かんでしまう現状に向けても本書は警鐘を鳴らしている。編者のひとりである東琢磨氏によれば、アメリカにおいてはラティーノ人口はいまやアフリカ系を上回ったという。この単純な事実だけを挙げても、アメリカというこのとんでもない食わせ物の他者に、しかし他者としての憧憬を抱きながら歴史を重ねてきたこの日本のなかで、その他者の内部で苦闘する姿を黒人に求めすぎてきた僕たち自身もマイノリティーの問題をいまいち度捉え直すべきなのだろう。そしてそう、新たなパースペクティヴを手にするしかない。そのための視座が本書には散らばっている。だいたい<サブマージ>にだっていまやラティーノが3人いる時代なのだ。
本書においてもうひとつ興味深い点はそのタイトルに“文化実践”とあること だ。僕たちは日々の生活においてもさまざまな次元で外部と内部に区切られている。
会社の内部と外部、学校の内部と外部などなど。内部から見た他者性すなわち外部は程度の差こそあれ周縁化され、また内部における逸脱は程度の差こそあれ抑圧される。つねに他者(=外部)を捏造することで巨大化した権力の別ヴァージョンは僕たちの身近にも存在する。そこに裂け目を持たせることの実践。ラテン音楽やレゲエをはじめとするカリブ海の音楽から大胆な大らかさやエネルギーのようなものを僕たち
が感じ取るのも、それらが僕たちを包囲する文化的窒息感に裂け目を与え、思いもよらぬ新たな回路を見せてくれるからだろう。
最後に、本書は勉強にもなるが、15人の著者によるレポートからは音楽を敏感にびんびんに感じてしまう無償の愛のようなものまで聴こえてくる。
野田 努(のだ つとむ)
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